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疑問に思ってしまうライフスタイル


なんだかんだと自身の経験を語りたがる。

こいつはもう、オッサンという生き物が否応なしに抱えてしまう業のようなものかもしれません。それなりに生きてきて、その証をどこかに伝えたい、残しておきたいという。

少しばかり切ないです。
自分で言うと、なおのこと。

切なさを感じるもまた、生きている証ですけれど。


齢50を過ぎて人生の折り返し地点を通過すると、どうしても振り返ってみたくなるわけです。「振り返り」を哲学だのと再編集してみせるのは、ある意味においては自己正当化。誇るべき実績を持つことができない中年男が溺れまいとしての必死の悪足掻きのようなものでしょう。

けど、悪足掻きであれなんであれ、「自己表現」などという衣装を着せて、もしくは衣装に合わせて体裁を整えて表出してみせる、見せることが許される、有象無象が見せることによって成立する空間がSNSとプラットフォームである...。

...と、わざとらしく過去記事の紹介と自己正当化のための前置きをしておいて、本題です。


ぼくが、良く言えば哲学的な生きざま、悪く言ってしまうとひねくれたオッサンのライフスタイルになったのは、いちばんの根っこはそうした気質に生まれついたということでしょうけれど、振り返ってみれば、気質が発現してきたきっかけや時期があることに気がつきます。

それは樵(林業)を始めた時期であり、そして当時(西暦2000年頃)はインターネットが普及し始めて個人でもブログといったような形で容易に発信ができるようになってきた時期でもある。

ぼくが暮らしていた南紀のあたりでも、ケーブルテレビの整備と合わせて光回線が繋がるようになってきた。ネット環境の整備がなければ、哲学的な(ひねくれた)気質はあるにせよ、その気質はさほど発現しなかったであろうと思います。

要するに、ぼくもまたネットによって発信を促された有象無象のひとりだということです。



林業の仕事は大きくふたつに大別されます。「造林」と「伐採」です。

現代の林業は、基本的なところは農業と変わりはありません。ただ、タイムスケールは大きく違う。農業なら1年が標準のタイムスケールでしょうけれど、林業の場合は何十年という単位になる。扱う「商品」が樹木という性質上、そうならざるを得ない。

そして、林業の仕事が大別されるのは、タイムスケジュールに依る。種を蒔いて収穫するのに長い年月が必要なので、その特質に人間(社会)が合わせようとすると、分業という形式になる。

この現象は人為あると同時に自然なことでもあります。
林業というのは、そうした人為と自然との狭間で成り立っている産業です。もちろん農業だってそうなのだけれど、テクノロジーの普及が農業に比べて遅れている分、ずっと林業はずっと自然よりの「仕事」であるわけです。

もっとも、その「偏り」もここ十年でずいぶんと「人為寄り」に修正されてしまいましたが...。


林業の仕事で、今、もっとも知られているのは「間伐」だろうと思います。少し前から盛んに間伐材の利用が宣伝されるようになって、行政からも補助金が支給されるようになってきた。

間伐材とは、農業でいうならば「間引き菜」です。

林業に従事すると、当然、間伐作業もするとになる。ぼくが林業に従事し始めた2000年頃は、まだ間伐材を利用しようという掛け声が上がり始めた頃で、現場ではまだほとんど「伐り捨て間伐」でした。


現場によって違いますが、場所によっては樹齢30年以上のものも、伐ってそのまま林の中に捨ててくる。30年にもなると立派な木ですから、もったいないと思うわけです。とはいえ、引っ張り出せない。

出してくれば、売れないわけではない。売れないわけではないけれど、収支が合わない。「合わない」から伐り捨てる。

山主からしてみれば、合わないのは間伐自体から合わない。作業には費用がかかる。伐り捨てるのですから、伐り捨てる作業は収支的にはムダです。

長期的には収支は取れるかもしれないけれど、短期的な無駄な支出になりかねない。資金に余裕のある山主ならいいけれど、小規模の、あるいは大山主でも資金繰りが苦しくなっているようなところだと、経済的事情でやりたくてもやれない、やらないことが自然破壊になるとわかっていてもやれないということが出てきてしまいます。

そうした事情を鑑みて、行政は補助金を出す。

全部とは言いませんが、林業なんて大部分は補助金で回っているようなもの。


で、です。
やっぱり、どうしたってお金を出す者は強い。世の中の慣わしです。

ぼくが林業に従事し始めた頃に行われるようになったのは、「伐り捨て」に加えて「整理」。伐っただけで終わりにしないで、整理整頓をしよう! ってなわけです。

まあ、理屈としてはわからないわけではない。

理屈だけではない。見た目からしても、よくわかります。



伐った後に「整理整頓」をした山林の様子。
スッキリしてしていて、見た目には心地よい。


けれど、これは非合理的な仕事です。

「伐り捨て」に比べて3倍の工数がかかる。では、3倍の効用があるかというと、間伐に求められる効用という意味では同じ。

いえ、同じどころか、副作用がある。根元に積み上げた木材は腐ると虫の温床になったりして、製品になるはずの樹木に良からぬ影響が出かねない。また短く切ってしまった木材は大雨などがあると流出して、ダムに溜まってしまったりする。


こんなような不合理な作業を命じられて、ぼくを含め、ほとんどの者が不満でした。


人間は、もともとはバカではない。
自身がやっている仕事を意味を、〔アタマ〕で考えなくても〔からだ〕で実感している。

林業などは肉体労働だから、ということではないと思います。たとえばジャーナリストや銀行員のような知的な労働者であっても、自身の仕事の意味は考えるまでもなく知っている。知性は知っていることを後追いで追認しているだけ。

けれど、世の慣わしに従えば、「知っている(はずの)こと」はなかなか実現できない。そこを乗り越えて自己実現をめざすのが〈大人〉――という理屈もある一方で、誰しもが「知っている(はずの)こと」を実現できるようにするべきという理屈もある。

前者は現実論であり、後者が理想論です。どちらに依る(寄る)かは、その者が持って生まれた気質や資質、生まれてからの出会いなどの運も含めて総合的に「個性的」なことだろうと思います。


そんなふうに考えてみるならば、目的からすると不合理なはずの施策が採られるようになったのにも、それなりの理由・事情があるはずと推論されます。


「3倍の予算が下りるなら、3倍の面積を間伐するべき」

この論は、現場の人間からすれば「理想に沿った現実論」です。が、翻って補助金を獲得する立場の人間からすれば、きっとそうはならない。

3倍の予算を獲得するための口実。

アタマで考えるならば、見てくれより効用になるはず。ところが現実は違う。実は「アタマで考えれば」ということ自体が理想論に過ぎません。

現実に(お金を握っている)人間にとって有効なのは「効用」よりも「見てくれ」。

上の写真のようなスッキリした「見てくれ」の方が、人間にとっては有効である。というのも、「見てくれ」は体感できるけれど、合目的的な効用は体感できないから。

良くいわれる言葉でいえば「現場と経営の乖離」ですが、この乖離は、経営判断を下す者の体感が現場から得られるはずの体感と乖離していることから起きる。


これは、スーパーで虫食いのない野菜が売れるのと同じです。

効用で考えれば、「見てくれ」のために殺虫剤が振りまかれた野菜よりそうでない野菜の方が上のはず。そうしたことはアタマでは理解できても、実際に選ばれるのは「見てくれ」の方という現実。

それどころか、効用を振りかざして「見てくれ」を軽んじると「意識高い系」なんて言われてかえって不自然な感じられてしまったりもする。

でもでも、実際に野菜を育てている人間にとってすれば、虫食いは体感できることです。「意識だけ」の効用ではない。虫食いな「見てくれ」も含めて、体感によって効用としてインプットされています。

それらは、こういった本によって指摘されていることだと思います。

行動経済学。あるいは行動心理学。
学問でいうならば。



樵の仲間の中には、

「予算が3倍あるということは仕事が3倍あるということだから、理屈はどうでもいい」

というような態度の人もいました。

社会に【適応】することを基準にするならば合目的的な態度です。

でも、それは〈人間〉の態度なのか?

そう思ってしまうのは、おそらくは持って生まれたぼくの気質でしょう。その気質に沿って自己表現することができる機会がインターネットの発達によって出現した。ハードルが下がった。

...ということで話は最初に戻ります。


おかげさまで(?)、なんでもかんでも疑問に思っ(不思議に感じ)てしまうような「ライフスタイル」ができあがったのだなぁと、自己肯定していたりするわけです。


感じるままに。