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『歴史とはなにか』

岡田英弘著『歴史とはなにか』
文春新書。平成13年に第1刷発行。

タイトルの通り、「歴史とはなにか」を考えるのに恰好の書です。


歴史は文化の一形態であり、文化には起源がある。歴史という文化も歴史的に起源を辿ることができる。

歴史にも歴史があるだなんていうのは、学校教育で当たり前のように歴史を習うぼくたち現代人には、ちょっと目から鱗な感じがあります。人類に歴史(という文化)があるのはごくごく当たり前のことだとぼくたちは思い込んで(思い込まされて)いますから。


『歴史とはなにか』は、次のように指摘します。

自前の「歴史」という文化を生んだのは地中海文明と中国文明だけだ、と。


地中海文明において歴史を創造したのはヘロドトス。ヘロドトスの歴史観は、二つの勢力が対立し最後に正義が勝利して終わるというもの。「物語(story)」の典型ですね。

二つの勢力とは、(巨大な)アジアと(正義の)ヨーロッパ。ヘロドトスが著した人類初の歴史書はその名もずばり『ヒストリアイ』。「ヒストリアイ」とは「ヒストリア」という名詞の複数形で、「ヒストリア」の原義は「調べて知ること、分かったこと」なのだそう。

ヘロドトスが調べて分かったこととは、

① 世界は変化するものである
② 世界の変化は、政治勢力の対立・抗争によって起こる
③ ヨーロッパとアジアは、永遠に対立する二つの勢力

現代人の、ことに極東アジア人の眼から見れば③は色眼鏡にしか思えないけれど、それこそ歴史的に見てみればヘロドトスには歴史がそのように見えたのは無理からぬことに思える。とはいえ、③の歴史観が後の歴史に与えた影響を考えると、今もって「無理からぬこと」で済ますわけにはいきません。


自前で歴史を生んだもう一つの文明は中国文明です。

中国の歴史の始祖はこれも(名前だけは)ご存知の司馬遷ですが、その歴史はヘロドトスのそれとは正反対に世界の変化を認めない。中国の歴史の本質は「正統」です。王朝の「正統」を確保するのが中国の歴史の目的。

つまり、ヘロドトスの歴史が弱者のものだとするならば、中国のそれは強者のもの。「(弱くても)正義ならば勝つ」が地中海式ならば、「正義だから勝った」が中国式だといいます。


ユーラシア大陸の西と東でそれぞれ別個に生まれた歴史は、やがてユーラシア大陸の他の文明にも伝播していきます。

輪廻転生思想が基本のインドでは、歴史は意味を持たない。神の意志がすべてのイスラームでも、歴史は生まれ得ない。

歴史を生み出す素養を持たなかった文明が歴史という文化を受け容れるようになったのは、とどのつまりは、歴史が「武器」になるからです。自身の立場を正当化するための武器。


現代の国民国家においては、「武器としての歴史」という捉え方が主流になっているようです。どの国家も、自らの歴史的正統性を自国民に誇示し、教育するために歴史を編集するのがスタンダードな形と言えるでしょう。

ただ日本は例外的で、先の敗戦のトラウマゆえにでしょう、歴史ですら武器として用いることを放棄していると言えるのかもしれません。この「放棄」は、現代のスタンダードな歴史観から眺めると“自虐史観”という言い方になります。


『歴史とはなにか』では、歴史を次のように定義しています

歴史は、人間の住む世界の説明である

(時間と空間に沿い、一個人の体験を越えて把握すること)


この定義に即して考えるならば、地中海式も中国式も、そして現代式の「武器としての歴史」も、それぞれがそれぞれに都合のよい「世界の説明」だと言えましょう。

言い替えるなら、主観的な歴史です。

学校ではまず、歴史が(誰かに)都合のよい主観的なものだと教わることはありませんが、歴史(という文化)を歴史的に俯瞰するならば、ぼくたちは未だに主観的な歴史観の中に埋もれていると言わざるをえないのかもしれません。

一方では、科学という客観的に世界を把握する方法を獲得していながら。


歴史(観)もまた、歴史的に変化をしていきます。主観的な歴史(観)から客観的な歴史(観)への変化は、歴史的必然というべきものです。省みて驚かずにいられないは、その変化はまだまだ始まったばかりだということでしょう。


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