「感応」と「同調」

一昨日につぶやきとコメントで済ませたテーマを改めて。


† 「愉気」とは?

参照元のブログは、「野口整体」という身体技法を実践し紹介している方のブログです。

野口整体についてはここで幾度も触れているので覚えのある方もおられるでしょうけれど、もう一度、改めて紹介しておきましょう。

 野口が重視したのは、人が意識をしないで思わず動いている体の動きだった。向こうから来る自転車を思わず避けられる体の動きである。雪の日に転びそうになりながら歩いているとき、人はそのような運動をする。これを「錐体外路系」の運動というらしい。
 われわれはこのような自由な動きを、ふだんは殺している。そして一人一人が不自然な「体癖」をつくりあげ、それで「病気だ、調子が悪い」と騒いでいる。
 野口は、この体癖をこえるための錐体外路系の運動をふだんから準備しておくべきだと考え、その準備体操を「活元」と名付けた。

「体癖」とは、アドラー心理学でいうところの「ライフスタイル」と思えばいいでしょう。心身は一体のものだと考えたとき、心の側からみれば「ライフスタイル」だし、体の側から見れば「体癖」である、と。


では、「愉気」とはなにか。

不自然を自然へと誘導していく治癒法とでも言えばいいか。具体的には何をやるかというと「手当て」なんですけれど。文字どおりの「手当て」。医療行為を“手当て”と言い替えますけれど、言い換えではなく、文字どおり。

手を当てて、相手を感じていると、結果として(医学的な意味での)治療になる(ことがある)――という、現代文明人の常識からすればちょっと信じ難いような現象のこと。


とはいえ、「現代文明人の常識」をカッコに入れれば(「カッコに入れる」は哲学です ♬)、なぜ”手あて”が医療行為の意味になったのか、言葉の歴史が疑問に感じられる。

実際に効果があったからだろうと、推測するのは合理的。そして、実際に効果はあるんです。効果はあるのだけど、近代の医療の効果がそれに勝ったから、「手あての治療」は為されなくなっていった――、ありがちなことですよね。

ところが、ひとりの天才が現れて、時代の流れの中で忘れられた古い技法を復活させた。――と書くと、あるいはマンガチックに響くかもしれませんが、これは実際にあった実話です。

その主人公が、野口晴哉というお方。
こんな面構えをしておいででした。

もっと大きな画像があったはずなのですが、見つけられなくて残念。ぼくが初めてこの写真を見たときは、かなり吃驚したことを覚えています。ただ者ではない感が、ただ事ではない!


同じようなことを感じられた方がおられたら、できれば

をオススメしますが、入手は難しいかもしれないので、

がいいと思います。

ちなみに、著者の野口昭子さんは晴哉の奥さんですが、第二次大戦終戦直前に内閣総理大臣そして自害された近衛文麿の娘さんです。


話がズレていってしまいました...♬


† 感応する自然な心身

愉気すると、人間の心身は感応します。
別に愉気でなくても感応をします、人間は。
人間というより、生命というものは。


感応というのも、また文字通りです。
感じて、応じる。
生命に備わっている感覚器官に情報が入力されると、それに応じて(考えなくても)身体が動く。自然に体が動く。

ただ同じ情報入力であっても、人間ひとり一人動き方が違う。感受性が違う。この違いを野口晴哉は”体癖”といった。つまり体癖とは個性です。


なぜ個性を体癖といったかというと、それは野口が整体師だったからです。人間の身体をつぶさに観察して、中国伝来の医学(鍼灸経穴)なども参考に独自の体系と方法論をまとめ上げた。

眺める観点が整体師であったがゆえに身体の側からだったという、いうなれば偶然です。

野口が天才的だったのは、その視線が身体の域に留まらず、感受性(入力情報への感応の個性)にまで及んだこと。

たとえば体癖1種の人は、感応のエネルギーが大脳へ行きやすいという「癖」がある。なので、性欲が高まるとやたら難しい本を読みたくなったりする――とか ♬


† 人間は調教をする!

環境からの情報入力に感応するのは人間だけではありません。ありとあらゆる生命体が感応をする。植物であろうが動物であろうが、細菌であろうが、すべての生命体は持って生まれた身体に応じて、感知した情報に対して(自然に)反応を返します。

けれど、人間はちょっと違った反応をする。それが”同調”です。

人間は社会性を持っていて、社会性があることが種としての生存戦略になっていますから、同調もまた自然な感応であると言えなくはない。実際、どこからが感応でどこからが同調か、線引きすることはできないでしょう。どちらもその種が生き延びるための自然な反応でしかない。

なので、人間以外の生物にも同調するものがいる。集団であることを生存戦略として採用している種には、同調性がある。そして、同調性がある種の中でも、特別に(偶然に)人間と相性が合う種が家畜になってます。


ちなみに、家畜≒ペットです。イコールにすると、ネコが浮いてしまう。

ネコには同調性はない。このことはネコ大好きな方はよ~くよくご存知のはず。けれど、感応性がないわけではない。ネコは、というよりネコ科の動物は、イヌやサルなどより高性能の身体を持つことを生存戦略とした生き物ですから、かわりに同調性は持たなかった。

なのに、人間とネコは一緒に暮らすことができる。人間にもネコにも感応性があって、しかもその感応性の相性が(偶然に)よかったから。

ネコの感応性の素晴らしさ、「個性の際立ち」は、言うまでもありません。

まとめると。
種としての感応性の相性が良いと一緒に暮らすことができるようになる。ペットになり得る。そのなかで同調性を持つ種は家畜になり得る。


感応性が近く、同調性がある種は家畜になる。家畜に人間が施すのが「調教」です。そして、感応性が近くて同調性があるのは人間自身もそう。だから、人間も人間に【調教】をする。

現在、一般に”教育”と言われている行為の成分のほとんどが「調教」成分だとぼくは思っていますが、でも、これはこれで「自然なこと」ではあります。


面白いのは、人間の中にも、ネコのように感応性が似ていても(人間同士なので似ているのは当然)、同調性が低い個体がいること。

これもまた個性に過ぎないのですけれど、社会の中の「調教成分」がかつてなく大きくなってしまった現代では、その個性を「障害」だと認識するようになってしまっています。ASDやADHDなどと「症例」が分類されるようになっています。

これらだって、〈感応〉という観点から見てみれば、なんら問題ではないはずだし、事実、ほんの少し前まではほとんどの者が問題だと認識をせずにいたことです。


† 文明には「感応の同調化」が必要

文明を発展させるには、どうしたって規律が必要です。各々の感受性・体癖がどうであれ、同じ情報に対して同じように反応するようにできるようになることが規律です。身体には個性があってみんな違っているのに、自分から進んで同じになっていこうとする。「同調」していこうとする。

この性向は「調教」と呼ぶのが相応しい。

けれど、そうでもしないと文明も文化も生まれないわけです。いえ、生まれたとしても伝承がされない。

文明や文化は創造性がなければ生まれませんが、創造とは〈感応〉の成果ですが、その成果に〈同調〉していくことがないと、創造はその場だけのことになり、創造の成果が積み重なって文明や文化へと発展していくことができません。

文明や文化がなければ、人間ならぬ「ヒト」は、精々が食物連鎖ピラミッドの中ほどに位置する中堅どころの動物でしかないから、今更困ってしまいます。だから「ヒト」は生き抜いていくために、規律を自らに叩き込むことができるように、自らを【調教】していくことになる。

でもでも、それはやっぱり個性ある身体にとって不自然なことであることに違いはない。不自然が昂じると調子が悪くなるし、病気にもなる。ごくごく当然のこと。本来は自然なはずのものが同士がバッティングし、そのバッティングを頑張って受け止めることが当然と考えてしまうような心性が生まれてしまうと、不自然が生じてしまいます。


そうした不自然が「普通」になるからこそ、逆に「個性を大切に!」と叫ばれるようになります。誰だって心身共に調子がいい方がいいに決まっているし、調子がいい方が効率だって発想だって良いに決まっています。生産性や進化やイノベーションを効率よく生みだそうとするならば、個性は尊重されなければならない。

生産性や進化やイノベーションのためということは、条件付きだということです。そうした条件に適した個性を持って生まれた者――生まれ持っての資質や才能――がものをいう社会環境に、現代はなってしまっています。


† 貨幣は「平和条約」である!!

自然と自然の「衝突」するのは、ごく自然なこと。「共生」が自然であるのと同様に、バッティングも自然です。

たとえば被子植物は、昆虫を引き寄せるために大きな花を咲かせて、受粉の手伝いを昆虫にしてもらう。これは「共生」の形。が、植物の中には昆虫を捕らえて食べてしまう食虫植物もいる。こちらは「衝突」。

動物は植物を食べるし、動物を食べる動物もいる。この連鎖を人間は生態系のピラミッドとして認識します。この形(ピラミッド)は「(生命)進化の形」でもある。

人間もまた、「進化の形」のなかの「ひとつの結果」です。その結果として、人間はゲノムに拠らずに進化をすることができるようになった。〈感応〉を同調化して伝承させることで文明と文化を興して社会を進化させ、進化した社会に適応することで人類そのものも進化してきた――けれど、ゲノムによる進化がゲノムに拠らない進化に追いつけなくなってきてしまっている。


貨幣は、社会を進化させてきた人間が発明した「衝突」解決のための手段だと言えます。「衝突」を「共生」へと変化させる「平和条約」です。

山に暮らす者は山の産物を手に入れることができる。海に暮らす者は海の産物を手に入れることができる。山に暮らす者が海の産物を欲したとして、そこにすでに海に暮らす人たちがいれば、そこに「衝突」が生じるのは必然です。

ゲノムによる進化しか人間が出来ないとするならば、そこには「棲み分け」が起きるか、あるいは戦争が起きるか。人類の歴史は「戦争の歴史」だと言えなくはない。けれど、人類は山に暮らす者が海の産物を平和裡に手に入れる手段を見つけだした。交換手段の発明はまぎれもなく創造であるし、創造は〈感応〉に他なりません。

そして、「感応(結果)」への「同調」が起きる。〈感応〉が素晴らしければ素晴らしいほど、「同調」の振幅も深く大きい。

貨幣が創造され価格がシステマチックに(人間を拠らずして)決定されるようになることは、社会という側面で見ればまぎれもなく「進化」ではあるけれど、その結果、現代は人間が「感応」に関われなくなってしまっている。

山の産物と海の産物の交換は、元々はそれぞれに人間同士が〈感応〉した結果だったはず。そこには、貨幣が発明されたあとでも「衝突」はしばしばあったはず。なのに「平和条約」の機能が増すにつれて、人間同士の「感応」の機会が減っていくことになる――

ここから先は『自分で考えるお金の話』へと引き継いでいくことにします。


† まとめ

・自然 ∋ 感応 ∋ 同調
・感応同士は衝突する
・自然 ∋ 衝突
・衝突への感応が「平和条約」を生む
・自然 ∋ 平和条約の創造
・平和条約によって感応が生まれなくなる ⇒ 不自然
・感応がうまれなくなる=調教される、隷属する



感じるままに。