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#ドラマ感想文「どうする家康」

今度こそもう見るのをやめよう、と思いました。
シリーズ冒頭から引っぱってきた伏線を回収して夏目広次が壮絶な死を遂げ、主人公が人目もはばからず寝転がって泣きじゃくるシーンの直後に、『お手付きしてどうする』という次回予告のタイトルを見せられた瞬間。

もともと、「こんなんだったら、もう見なくてもいいんじゃないのかなぁ」と、ずっと首をひねりながら視聴していたのです。

そもそも大河ドラマのファンじゃない(笑)

私は大河ドラマのファンというわけではありません。
日本史にもあまり興味がありません。高校では世界史を選択したので、日本史の知識は義務教育レベルにとどまっています。

これまでに見たことがある大河ドラマは『真田丸』『麒麟がくる』『鎌倉殿の13人』です。
『真田丸』は、本当に何の気なしに第1話を見たら大変面白かったので、そのまま引き込まれて1年間見てしまったものです。『麒麟がくる』は、日本で最も有名な裏切者の一人である明智光秀が主人公ということで、「これは見るしかない!」と飛びつきました。『鎌倉殿』は謀略と裏切りと殺し合いがテーマと聞き、いそいそとチャンネルを合わせました。

『どう家』は、本当は全然見る気がなかったのです。
予告の段階から私向きのドラマでないことは明白でした。
ただ、昨年は、大河ドラマにどっぷりひたる日々を送りました。私はもともとテレビをあまり見ない方なのですが、『鎌倉殿』は日曜日に見て、土曜日に再放送を見て、さらにはNHKプラスでも視聴するなど、同一エピソードを3回も見るほどハマりました。それが習慣となってしまい、「大河がない毎日は寂しい」と感じたのです。

また、昨年の終わり頃に、
「ダメダメプリンスとポンコツ家臣集団」
というようなキャッチフレーズを目にしました。
これは面白そう、などと思ってしまい、『どう家』の視聴を決めました。

キャッチフレーズに偽りなし

『どう家』はまぎれもなく、「ダメダメプリンスとポンコツ家臣集団」の物語です。特に主人公・家康のダメダメぶりはすさまじい。

第1話では人形遊びに興じる泣き虫で弱虫の青年として登場します。弱っちいふりをしているが実はそこそこ武術にもけている、というあたりは主人公らしくて良いのですが――織田信長に攻められ、敵中で孤立したときに、家康は部下を置き去りにして一人で逃げ出すのです! 「もういやじゃぁぁ」とかわめきながら!
主人公の好感度が地の底まで落ちる第1話です。

普通の話なら、「逃げたように見えたが、それは実は主人公の深慮遠謀に基づく行動だった」とか、「いったんは恐怖に負けて逃げてしまったものの、残した部下たちのことを思い、勇気を振りしぼって戦場へ戻った」とかいう展開が続くものでしょうが、この斬新な大河ドラマでは、そういうのはまったくありません。主人公は部下につかまって、無理やり戦場へ引き戻されます。一貫して腰抜け野郎のままです。

物語が進み、作品中でも年月が経過するにつれて、さすがの腰抜け主人公も肝がすわってきます。もう「戦いが怖い」と言って逃げたりしません。ちゃんと前線に出て、刀をふるって戦います。そういう意味では、主人公の成長が描かれています。
ただ、泣き虫は治りません。もう物語も中盤だというのに。
妻と離れて暮らすのが嫌だと言っては泣き、部下を喪っては泣きます。

中の人を愛する女性ファンはそんな姿にキュンとするのかもしれませんが、私としては、軽々しく涙をこぼす主人公に幻滅しか感じません。
(戦いの後、散っていった大勢の部下を悼むシーンは『麒麟』の信長にもありましたが、それと比べると何たる違いか)

第1話で大嫌いになってしまった主人公を、見直す機会を与えてもらえていないのです。これまでのところ。
第1話での巨大なマイナスを覆せるほどの「いいところ」が、主人公に見あたらない。

「ダメダメプリンスとポンコツ家臣集団」というキャッチが面白そうに響くのは、「欠点はあるが心根の良いプリンスを、家臣が慕い、支えようとしてドタバタを繰り広げる」というような物語が思い浮かぶからだと思います。第一条件として、プリンスは愛すべき人物でなければなりません。だからこそ、それを支えようと奔走する家臣の行動が説得力を持ちます。

しかし『どう家』の家康は、とても「愛すべき人物」には見えません。
むしろ脚本は、意図的に家康をダメ人間として描いているように見えます。

・家康の裏切りのせいで今川に処刑された三河の人々を描いた後で、『瀬名奪回作戦』を描く。家康は戦局を無視してでも、瀬名とわが子を今川から取り戻そうとします。「大事なのは自分の妻子のことだけかよ。そのために戦をして部下の命を危険にさらすのかよ。民は見殺しにしたくせに」とツッコミが止まりませんでした(同様のツッコミは作品中でも本多正信がしています)。
・家康の家来が一向宗の寺に乱入し、民を踏みつけにして荒々しく米俵を奪っていく場面の直後に、不必要なほどこんもりと盛られたご飯をうまそうに食べる家康が大写しになる。支配者の傲慢と無知をはっきりと浮き彫りにする印象的なシーンです(「この脚本は主人公を好きになってもらおうとしてないよな」と感じました)。
・ことあるごとに泣き、うろたえ、オロオロし、従来型の「男らしさ」の枠から完全にはみ出した人間でありながら、男としてやる事だけはやる、というのがいっそう嫌悪感をかき立てます。本作では側室1人ごとに丸々1エピソードが充てられていますが、家康は毎回、見えすいたあからさまな色香やハニートラップに簡単に引っかかり、みっともなく鼻の下を伸ばします。

言葉は悪いですが、完全にクソ野郎です。本当にもう、そうとしか言えません。

主人公を好きになれないということ

もちろん、キャラを好きになれるかなれないかは、完全に見る側の好みの問題です。脚本家はこの主人公を「愛すべきダメ人間」として描いているのかもしれません。また、古典的なヒーロー像から遠く離れたこういう主人公を「人間臭い」と好意的に評価する人もいるでしょう。

ただ、『どう家』の家康が、万人受けする主人公ではないのは確かでしょう。
そのことは視聴率にも表れています。「いまどき視聴率などという指標は古臭い」と言われるかもしれませんが、中の人が圧倒的な人気を誇り、ふだんなら大河など見向きもしない大勢のジャニーズファンが見に来るはずなのにこの数字、という事実が多くのことを物語っている気がします。

主人公に魅力がないので。
主人公を取り囲む個性豊かな家臣団にも、残念ながら魅力を感じられません。彼らがなぜあの主君を慕っているのかが見えてこないので、説得力がなく、共感できないのです。

Twitterで「神回」という評価も目にした第18回。本多忠勝が叔父に「殿のことを好きなんじゃろ?」みたいなことを言われて決断を迫られる場面がありましたが、「なんで好きなの? どこが???」と疑問と違和感しか感じませんでした。

芸術性を重視した映画や文学小説ではないのですから、ドラマでは、視聴者が普通に好感を持てる人物を主人公にしてほしいと思います。好きになれない人間がどうなっていこうと、興味を持って追いかけたいとは思いません。

一人で人形遊びに興じる少年。「心優しい」少年だと描きたかったのかもしれませんが的外れです。単なる「なよなよした奴」にしか見えません。
優しさを表現するなら、小さな生き物の命を大切にするとか、自分より弱い立場にある人を思いやるとか、そういう場面が欲しかったです(そういう場面が第1話にあれば、冒頭から主人公を好きになれて、後々の展開ももうちょっと温かい目で見られたはず! 『SAVE THE CAT』で言われているのもきっとそういうことでしょう)。

どんな危険を冒しても、自分の妻子「だけ」は何としてでも助けようとする主人公の姿は、「愛情深い」「妻子思いの」人物とは映りません。ただのマイホーム野郎です。
たとえ自分の妻子を危険にさらすことになっても、家臣の妻子や民草を守りたい、と行動するのが主人公であってほしいです。『どう家』の主人公はその真逆です。

過去大河との比較

本作と対極にあるのが『麒麟がくる』だと思います。

主人公・明智光秀は、みんな大好き織田信長を裏切って殺した天下の逆賊です。イメージは最初から最悪です。マイナスからのドラマ開始です。
それを逆転させ、主人公の好感度を高めるために、『麒麟』では第1話から第5話まで、主人公を徹底的に上げて上げて上げまくりました。
野盗から領民を守るため、先頭を切って戦う主人公の派手なバトルシーンからスタート。主人公の強さ、勇気、指導力、作戦立案能力、身体能力などが存分に描写されます。第1話の終わりには、燃えさかる火の中に飛び込んで、見ず知らずの幼い子供を救い出し、町人に喝采されたりもします。これぞヒーロー、という活躍ぶりです。
それからの数話で、主人公が実は秀才であること、美しい幼なじみの姫にほのかな想いを寄せられていること、剣の達人でもあること、上役に忖度せずズバズバ物申す胆力(馬鹿正直さ)、などが次々と描かれます。

ここまで上げられたら――主人公を好きにならずにはいられません。

『麒麟がくる』というドラマ自体は、コロナの逆風をまともに受けました。途中で放映が中断されたり、合戦シーンが撮影できなかったり、(撮影期間の延長で主要キャストのスケジュールを手配できなかったためか)モブキャラの場面が不必要に長くてストーリーのバランスが崩れたりと、いろいろ難がありましたが、それでも熱心なファンが最後までついていったのは、最初の数話で主人公にがっちり心をつかまれてしまったからではないか、と思います。

主人公の魅力はドラマの百難を隠すのです。

『真田丸』と『鎌倉殿』は、どちらも「平凡な青年が巨大な時代の流れに巻き込まれて……」系の物語ですので、主人公は名もなき平凡な若者として登場します。『麒麟』冒頭の、無名でもキラキラしていた十兵衛とはかなり違います。『真田丸』では真田父の方が、『鎌倉殿』では頼朝の方が、主人公より目立っています。

ただ、どちらのドラマの主人公も、平凡ではあるが好感の持てる若者たちです。元気いっぱいで生き生きしていたり、実直に家業に励んでいたり。
少なくとも「ダメ人間」という形容はあてはまりません。
だから視聴者は、彼らが成長し、頭角を現すまで見守りたくなります。彼らの前途に何が待ち受けるのかとワクワクします。

『どう家』では、全然そんな気になれないのです。
「情けないダメ人間が成長する」系の物語だとすれば、そろそろ主人公にワクワクさせてもらいたいのですが――5月も終わろうとしているというのに、いまだに主人公は家臣の前でメソメソ泣きべそをかいています。人として器が大きくなっているように見えません。

主人公にも家臣団にも共感できないのに、だらだら視聴を続けているのは、信長・秀吉・家康にこの先起こることを見たいから、だと思います。ドラマではなく史実に惹きつけられているわけです。
けれども、何かきっかけがあったら(忙しくて一、二回見逃したりしたら)するっと離脱してしまうかもな、という気もしています。

どうでもいい追記:古参腐女子の視点

『どう家』で物議を醸しているものの一つに、信長VS家康の露骨なBL描写があります。

私も腐女子のはしくれですが、あれらのシーンを見ても「ほーーん」という醒めた気分にしかなりません。

腐女子は行間を読む生き物です。火のないところに煙を見出すのが腐女子の本懐です。
萌えというのは、公式から「ほらほら。おまえらこういうの好きだろ?」とこれ見よがしに差し出されるものではありません。公式が仕掛けて盛り上げるものではないのです。
『どう家』のBL表現は、いかにも「男が想像する腐女子サービス」という感じで、強引さが痛すぎます。
(もっともこれは、私が古参だからそう感じるだけで、今の腐界隈は「公式のお膳立てウェルカム!」なのかもしれません。あるいは、あのBL表現は、腐女子ではなくジャニーズファンの皆さんを対象にしたサービスなのかも。間違っていたらすみません)

ただ、『どう家』のBL表現に萌えられないのは、単に私が『どう家』の主人公を好きではないからかもしれません。

『麒麟がくる』の世界線で岡田信長 x 長谷川十兵衛だったら破壊力やばいな! 薄い本を買いあさってしまうかも、あるいは自分で作るかも(笑) 染谷信長も切なさと危うさがとても良かったのですが。


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