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勇気と無謀の違いは神様も教えてくれなかった (7)

「毎晩寝る前に、夫にこれを飲ませなさい」

 ゼフォン博士はミレイユに器を持ってこさせ、瓶からつまみ出した白い小さな丸薬を一つ一つ数えながら入れた。博士の眼鏡がランプの灯を受けてぎらりと光った。

「最高に強力な眠り薬だ。これを飲んでおけば少々の痛みでは目は覚めん。……『禁断症状』から逃れることはできんが、症状が収まるまでの期間を、なんとかごまかしながら乗り切ることはできるだろう。わしにできるのはここまでだ」

 ミレイユは神妙な表情でうなずいた。

 彼女に見送られて、僕らはタクマイン家を後にした。ヴィーエ街から離れるにつれ、僕らは深い闇に包まれた。少し離れたところで僕らを待っている馬車が、闇の中で輝いている。ランプを吊るしているだけでなく、馬具にもたくさんの煌光石が埋め込まれているせいだ。
 足元の悪い中、僕らは慎重に光をめざした。ざく、ざく、という足音だけが耳についた。
 沈黙を破ったのはゼフォン博士だった。

「原因がわかれば治せるのか、あの症状を? 神の力というやつで?」

 なにげない口調ではあったが、こめられた真剣さは聞き逃しようがなかった。
 僕は驚いた。この人の口からそんな質問が出るとは思わなかったのだ。あわててうなずいた。

「もちろんです。ただ、実際問題として……その、〈生命の欠片〉でしたっけ? 人工物による患いには、神の力も及びにくいんです。魂が病んだ結果として体も病む、という自然の流れから外れていますから。ですから、えーっと……タクマインさんがどこまで神を受け入れるか、にかかっていると思うんですが……」
「なるほど。本人の信仰心の問題というわけか。……あんたら坊主は、いつもそうやって、ちゃんと逃げ道を残しているんだな」

 博士はせせら笑った。
 その冷笑は鋭く僕の胸に突き刺さった。「逃げ道だなんて、そんな……」と僕がもごもごと抗議の言葉を紡ぎかけていると、

「傲慢なジジイだぜ。てめえの腐った物差しで、神の加護を測るな」

 ロランの低い声が割り込んできた。その口調は挑発的で、あきらかに喧嘩を売る気満々だった。

「あんたの信奉してる科学技術ってやつこそ、ずいぶん罪深いシロモノじゃねーか。神は人にふさわしい守護をすでに十分に与えてくださっているのに……あんたらは『もっと、もっと』と欲しがる。人の欲望には終わりがねえ。あげくの果てに、結果が悪いと『今の科学ではどうしようもない』と投げ出しやがる。ろくでもねぇ薬やら技術やらのせいで、今どれだけ大勢の人が苦しんでるか、あんただって知らないわけじゃねーだろ? ――少なくとも俺たちは投げ出したりはしねぇ。科学技術は万能じゃないが、神は万能だからな」
「……」

 ゼフォン博士が大きく息を吸い込む音が聞こえた。
 大騒ぎが始まるな、と僕は身構えた。そろそろ馬車が近づいてきた。多少強引になろうとも、博士をさっさと馬車に押し込んでこの場を離れてもらおう、と決意した。辺りはとてつもなく静かだ。ヴィーエ街とは距離があるが、この二人が口論を始めたら、その大声はそこらじゅうに響きわたり、住民の眠りを妨げてしまうだろう。町の皆さんに迷惑はかけたくない。

 だが、僕の予想とは異なり、罵り合いは始まらなかった。馬車からの薄明かりの中で、博士の口元が動くのが見えた。笑った――ように見える。でも、まさか、そんな。
 博士は無言のまま歩き続けた。
 街道に着き、博士が馬車に乗りこむまで、誰も口をきかなかった。

 本来なら、ここでお別れだ。馬車はゼフォン博士を隣町の自宅まで送り届ける契約になっている。
 けれども僕は、「神の力であの症状を治せるのか」と尋ねた博士の真剣な声を思い出していた。科学万能主義のはずの博士に似合わない、すがるような響き。
 神に背中を押された気がした。

「博士を家まで送ってくる」

 ロランにそう言い残して、僕は博士の後から馬車に飛び乗った。扉が閉じるのを待ちかねたように、御者が馬にぴしりと鞭をくれた。馬車は街道を勢いよく走り出した。
 狭い車内でゼフォン博士と僕は差し向かいに座っていた。博士は驚いたように僕をまじまじとみつめていた。

「あの……〈生命の欠片〉ってどういうものなのか、もっと詳しく教えてもらえませんか。僕、初めて聞いたので……」

 車輪から伝わる地面の凸凹に揺られながら、僕は遠慮がちに切り出した。博士は眉をひそめた。

「あんたの相方に訊いてみりゃいいだろう。少しは知っている様子だったぞ」
「いや……その……できれば、お医者さんから教えてもらいたくて……」

 僕は口ごもった。ロランに頭を下げて教えを乞うなんてまっぴらだ。信仰者は謙虚でなければならないと言われるが、物には限度というものがある。
 博士はしばらく考え込んでいたが、やがて重々しく咳払いをし、口を開いた。

 〈生命の欠片〉はサハという植物から作られる。根を乾燥させ、精製して、痛み止めを作るのに昔からよく使われてきた植物だ。
 あるとき誰かが――たぶん痛み止めの精製に失敗した薬師が――その精製の途中で強い圧力を長時間にわたって加えると、また別の効果を持った薬物を生み出せることに気づいた。それは人の心や身体の働きをとてつもなく高める薬で、まるで生命そのものを燃え上がらせるように見えることから、〈生命の欠片〉と呼ばれるようになった。人の創造力を高め、眠っていた能力を引き出す、夢のような薬だ。
 けれども世間にはほとんど出回っておらず、存在も知られていない。理由の一つは精製が難しいということだ。サハを純度の高い〈生命の欠片〉に変質させるために必要な圧力は、近ごろ帝都あたりで使われるようになった蒸気機関という装置でしか得られない。そんな装置を手に入れられるのは、よほどの権力者かお金持ちだけだ。
 また、〈生命の欠片〉が広く出回っていないもう一つの理由は。

「あれが人間をぼろぼろにしてしまう薬だからだ……!」

 ゼフォン博士は馬車の窓を見やりながら、吐き捨てるように言った。
 窓の外は漆黒の闇で塗りつぶされている。僕は息をつめて博士の次の言葉を待った。

「〈生命の欠片〉は、人間の生命力を高める薬ではない。そんな薬など存在するはずもない。神経を興奮させて、疲れを感じにくくさせるだけなのだ。薬が効いている間は眠気も空腹も覚えず、不自然なほど活動的な状態が続くが、それは体をだましているに過ぎない。何十日も不眠不休で働き続ければ、待っているのは衰弱、そして死だ。あの薬にとり憑かれた人間は、自分は元気いっぱいで力と才能にあふれていると信じながら、最後の一瞬まで働きに働いて死ぬのだ」
「でも……そんな恐ろしい薬なら……さっさと飲むのをやめればいいじゃないですか。何日も眠らないなんて異常だ。自分でもおかしいと気づくはずです」

 僕の問いかけに、博士がつめたく笑う気配が伝わってきた。

「やめることはそれほど簡単ではない。禁断症状が苦しいというのもあるが……それ以上に、あの薬には人の心を奪ってしまう魔力がある。わしも何人か見てきたが、どいつもこいつもぼろぼろの体で、それでも〈生命の欠片〉が欲しいと懇願しながら死んでいった。だから、今夜の患者のような男は珍しい。薬を絶ちたいと考える、よほど強い理由があるのだろうな」

 僕は、死んでも離れないと言わんばかりに寝台で固く抱き合っていたタクマインとミレイユの姿を思い出し、胸がつまった。
 きっとタクマインはミレイユのために〈生命の欠片〉を絶つ決心をしたのだろう。妻に心配をかけたくないから、黙って一人で乗り越えようとしているのだ。
 まさに夫婦愛の鑑じゃないか。この善良な夫婦に助かってもらわなくては。
 そう決意を固めると、気力が満ちてくるのと同時に、いくつかの疑問が僕の胸に湧き上がってきた。

「その〈生命の欠片〉というのは、簡単に手に入る薬ではないんですよね。タクマインさんはどうやってそれを手に入れたんでしょう? それに……どんなに苦しくても薬を絶とうとがんばれるぐらい意思の強い人が、どうしてそもそもそんな薬など飲み始めたんでしょう?」

 博士は鋭い視線でじっと僕を見据えた。馬車の前の窓から入ってくるランプの光が、博士の眼鏡に小さく映って揺れた。長いあいだ封じこめてきた秘密を打ち明けるみたいな重々しい口調で博士は言った。

「わしにはわからん。それは医者の領分ではない。……だが、この一年でわしが診た〈生命の欠片〉の患者は、タクマインで六人目だ。こんな田舎で六人だぞ? あり得ない人数だ。そしてタクマイン以外の患者は皆、『薬が欲しい』と泣き叫びながら死んでいった」

 僕はすっかり博士の話にひきこまれていたので、馬車がいつの間にか隣町に入っていることに気づかなかった。博士の屋敷の前で馬車は止まった。立派な玄関が、主の帰りを待つように、いくつもの飾りランプで明るく照らし出されていた。

 僕らは降り立った。
 馬車との契約はここまでだから、僕はスペクロ町まで街道を歩いて帰らなければならない(使徒の移動手段は基本的に徒歩だ。夜中の大平原を一人で歩くなんて嫌だ、という神経の細い人は使徒向きではない)。

 少しここで待っていなさい、と言い残してゼフォン博士は扉の中へ消えていった。しばらくたって屋敷から出てきた博士の手には一輪の花が握られていた。
 可憐な感じの花だった。女性のかぶる丸帽子に似た形の小さな白い花が五、六個ずつまとまって付いて、頭を垂れている。葉は細長い。
 博士はその花を僕に手渡した。

「……これが、もしかして……」
「そう。サハの花だ。――どこかで見かけることもあるかもしれん。よく覚えておくことだ」

 その口調にまだ何か含まれているような気がして――僕は相手の表情を探った。だが博士はそれ以上何も語らず、おやすみ、と屋敷の中へ姿を消した。


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