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幻に、よろしく。


実家の本棚にあった、おそらく母が買ったのであろう本を、こっそり持ち帰ってきた。川村元気著『世界から猫が消えたなら』。数年前、飛行機でこの映画を観て、すぐに母親に勧めた。その原作である。読み終えたあと、この本をこっそり持ち帰ってきたことを少し後悔した。母が二度三度読み返すかは分からないが、母の手元に置いておくべき本だったような気がした。

実家には、ハルという犬がいる。正しくは漢字かひらがな表記なのかもしれないが、私はカタカナで呼んでいる。美形でスマートでかしこくてあざとくて、「田中みな実みたいにかわいいの」と友人に写真を送りつけた。今ではすっかり我が家のアイドルだが、私はハルを見るたび、切なくなることがあった。
私が小学一年生の頃、うさぎを飼っていた。ピカリと言った。正直、記憶は朧げだが、みんなピカリのことを可愛がっていた。一年ほど、家族とともに生きていただろうか。ピカリはある晩に、野良猫に引っかかれて怪我を負い、病気になってしまった。それからはエリマキトカゲのようなプラスチックの何かを首らしきところに巻きつけて生活していた。ピカリが死んだ日、朝から母は泣いていた。無愛想な父も悲しそうな顔をしていた。みんなで庭の隅にお墓をつくって、ピカリを埋めて、花を添えて、手を合わせた。私は度々、外に咲いているオオイヌフグリやぺんぺん草をお墓に添えた。ピカリの死があってから、小さな蟹や魚、カブトムシを育てることはあったが、そういう、生暖かさが感じるようなペットがうちにいることはなかった。(この文章を書きながら、子供ながら無意識のうちに、命に「差」をつけていたんだなと残酷な気持ちになる。)私も、ピカリの死であんなに悲しがっていた家族が、もう一度ペットを飼うことなんてないと思っていた。ハルが我が家にやってきたのは、私が上京した年、2015年だった。


東京のアパートでは、サボテンを育てている。ダイソーで買ってきた、「サボ子」。実はサボテンは2代目で、1代目の「サボ太」は枯らしてしまった。サボテンも枯れるらしいと、このとき初めて知った。ぐんぐん小さくなっていったサボ太とは対称的に、サボ子はぐんぐん育っている、気がする。ペット可なアパートでペットを飼う気にならなかったのは、いつか死んでしまうからだ。自分のもとから離れていく「いつか」を見るのは、とても怖かった。大事なものは増やしたくなかったのだ。
サボテンならいいの?ってとこである。一度枯らしたくせに懲りずにサボテンを育てる私と、一度ペットの死を迎えたのに新しくハルを受け入れた家族。なにも違いはなかった。愛情を求め、求められることを必要としていただけだった。

作中で、家族が猫の「レタス」の死を迎えた後、「キャベツ」を迎え入れるシーンがある。父親は、命はいつか死ぬものだと分かっていればそれでいい。と「キャベツ」が家族になることを受け入れていた。きっと私の家族だってそれを十分に理解している。ペットだけでなく、生きてきた間に、祖父も祖母も親戚も知り合いも失くしてきたのだ。だから、また新しい命を迎え入れたのだと思う。

世界から、消えたなら。こんなの想像の範疇でしかない。しかし、この本の最後、解説に、「愛」とは「消えてほしくないこと」だ、と記されていた。すとんと心の奥に落ち、ややべったりと心に張り付いた。母はこの本を読みながら、何を思い浮かべたのだろう。私たち子供のこと?ハルやピカリのこと?亡くなった祖父母のこと?次の帰省の時にこっそり本棚に戻しておこうと言う気持ちと、母が読んだものを私が持っていたいと言う気持ちの、自分でも微笑ましい葛藤に苛まれた。そういえば、ピカリの死の原因になってから、「猫は嫌いだ」と母は言っていたなあ。

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