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【昔のやつ】ジェンダートラブル

これは大昔にmixiの日記に書いた雑文です。それをそのままコピペしておきます。今読んだら違う感想かもしれませんが、記録として。

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やっと、終わった。
最後の方はもうパラパラとめくっただけのようになってしまった。
途中から、何度も引き合いに出していた、「徴候 記憶 外傷」を読みなおしてしまった。だから、ジェンダートラブルを読み終わるのが遅くなったのかもしれない。

読んでいるうちに、「あ~」中井先生とかぶっているなぁと思う部分が多く、両方読むことで理解が促進したように思える。
とくに「踏み越え(taransgression)」については、同じことを違う側面から語っている感がたっぷりした。

ちなみに「性としての身体」については中井久夫は「the another sex」として謎のままにしておきたいと言っていた。かしこいやり方だ。


読み終わっての感想だけど、とにかく、この本に出てくる人間(バトラー)も含めて、強迫的な同性愛と近親姦の排除を感じると同時に、一神教的な西洋文化のにおいが鼻についた。

逆にいうと、ラカンやフロイトの批判は西洋文化にいるバトラーたちであるから、的を得ているようであり、日本人が批判しても、異なるパラダイムからの「つっつき」ぐらいにしかならないのではないか?と思った。

バトラーはとにかく、「前ー言語的」な世界などはないことを首尾一貫主張する。それは幻想であり、「父なる法」の上に成り立つ概念であると。

しかし、それに関しては反論したい。
確かに「前ー言語的」なセックス/ジェンダーはないと思うが、「前ー言語的」な世界、中井のいう「メタ世界」はあるのではないかと思う。

その根拠として、2半~3歳半頃に赤ん坊は「成人文法性」を獲得する。それにより、ナラティヴとしての連続性を獲得する。ナラティヴとしての連続性とは、因果関係を持ち、現実の複雑性を捨象、単純化し、整合性のある言語を使用するということである。

これは、バトラーのいう「父の法」による、禁止と抑圧に値するものではないだろうか?

それ以前は「成人文法性」は獲得されていない。それ以外の「文法(そんなものがあるのかは不明)」で思考し、記憶されている。しかし、「思考」には「成人文法性」の言語が必要であり、それを持たない赤ん坊は「思考」しているとは言えないのかもしれない。
それを中井は古型言語と読んでいる。古型言語は人が記憶としてとどめる前の文法であり、都合が悪いから消去されたものである。いや、消去ではなく、成人文法では語られないものである。この古型言語時代は当然のように、「自己」が曖昧であり、アイデンティティもほとんどない。もちろんジェンダーもない。

言語は他者から与えられる「名づけ」から始まり、ただの「物質」から「対象」に変化していく。

「対象」を獲得するには「自己」が必要であり、言語を必要とするときから、母(世界)との個別化が図られる。

その際に、バトラーらが言っているように、父の声/法が大きな影響を与えると考えられる。

ラカンもフロイトもただこの「父の声/法」を模倣し、追随し、強化するための理論を確立したにすぎない。
不思議なのは途中までは構築される過程を綿密に組み立てているにも関わらず、最後は曖昧で尻つぼみに終わってしまうことである。

さらに、私個人は「近親姦」「同性愛」の趣味はないが、個人の趣味とは関係なく、なぜそれが社会的にタブーになりうるのかの説明がなされていない。最初から「タブー」であるという「やっつけな」定義の仕方である。

ちょっと横道にそれるけど、旧約聖書には「鶏姦」で罰せられる男の話があった気がする。その時代に同性愛はあったことの事実と、そこで初めて罰せられたことの事実がうかがえる。「近親姦」は旧約聖書では罰せられなかった気がする。しかし、これは「娘」からの誘惑であって、「息子」が「母」への誘惑ではなかったような。

なんか、「はは~ぁん」という感じだ。


精神分析的に私が「女」であるためには「男」が必要であるが、「女」は「普遍的な人である男ではない」という文脈においてで存在できる。
主体としての「男」を支えるために、つっかえ棒のようにいるのが「女」である。観念(幻想)を継続するためには「常に入力され続けなければならない」。そのために、女のリピドーは形を捻じ曲げられ、「愛されて欲望される」ことへ変換する。
「人という字をみてみろ」ではないけど、男が主体でいるためには「人」の右側が必要なのだ。ここでも、共犯関係が成り立つ。

男の主体という幻想は女のリピドーを吸い取って完成する。
なぜ、そういう構造が必要なのか?

バトラーは「父の法の補完」と主張しているが、私は違うと思う。
ひとえに主体としてのアイデンティティの確立のためではないかと考える。

「私」が「私である」ためにはゆるぎない幻想が必要であり、余分なもの、混乱をきたすもの、理解不能なもの、言語にできないものは解離される。意識と両立できないものは絶えずエネルギーを注ぎ排除していく。それはサリヴァンのいうself-systemである。

余分なものが一同に意識に侵入すると、それは「破綻」が待っている。
実際に、欧米に少なくない「同性愛」との接触による統合失調症の発病にあらわれている。

ん?ちょっと待て。「父の法」に合わせたアイデンティティの確立によって、男の主体は安定化もするが、破壊もされるという方が正確かもしれない。

中井は「メタ私」という概念において、「制御されているものが制御するもの」になり、円環的構造を持つと言っている。
さらに、「法」とは「言語」であり、自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、世界に対する個の能動感を取り戻す力と解説している。
ことは「主体としての男」にとっての力、権力である。


では「女」はどうなのか?女というくくりでは私は語れないので、「私」という個人の話をしようと思う。
私は、たぶん「父の娘」であって、誰だかが言った「同性愛」の女である。
古型言語の世界の話だから、確実ではないが、「母に失望」し、母から離れて、「父と同一化」したのだと思う。
幼い頃、小学校の低学年では「なぜ、私は『男』に生まれてこなかったのだろうか?」と疑問に思うと同時に、怒りを感じていたのだろう。だから、私は常に「このやろ~、お前のちんちんちょん切るぞ!!」という顔をしていたのではなかろうか。ファルスを手に入れるためにはファルスを略奪しなければと思っていたのかもしれない。
しかし、男を差し置いて(去勢して)、権力を振るおうとしていたのは高校生までで、(まぁ中高生のころから、一部の男の子からかなり嫌われていたけど)それまでも、お化粧やおしゃれは好きだったが、大学生になる頃には、男からの反撃と父からの罰に恐れるようになったのか、女らしさを否定しつつ、ホモソーシャルな場に潜り込む「女」の位置を探るようになった。
その結果、今の私の仮装があるのだと思う。


さて、なんの話だったっけ?

まぁ、とりあえず、ここでいったん区切ります。

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なんか漁っていたらコメントが見つかったのでそれもここにおいておく

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「私が『私』であることを支えるもの」

昨日の「私」と今日の「私」が同一であると認められるのはいったいなぜなのか?
要するに、アイデンティティについての話が序盤ではメインになっているような気がする。

村瀬先生の講義でも言われていたが、

心理機能は一番下位のシステムである。
その上が社会システム、一番上位が生物システムにある。

私を認知するのは外界の支えがあることで形作られている。
その例としては、安永のファントム理論しかり、統合失調症にonsetのエピソードが一人暮らし中が少なくないというのもあげられるだろう。

ファントム理論を精通しているとは言えないが、要約すると「主観の中で外界が自己の中に侵入してくる感覚により発症する」というもの(だと思う・・・)個人がよろめいて、外界が支えきれなくなった時ということ。

朝起きたときに、家族が私のことを知らないといったら、どうなるか?
仕事、友人すべての場所で「お前のことなど知らない」と言われたらどうなるか?
または「○○花子」として扱われたら?

私の「『私』を支えるもの」にかなりの影響がでると思う。

また、行為と行為者の関係についても、私は以前「徴候 記憶 外傷」にも通ずるところがあり、

「人間が自発的行為を実行する時、意識は時間をおいて、その意図を知る。しかも、意識は自分が進退に行動するように指示したと錯覚する。」

と書いてあるものがそのまま書かれてあるような印象を受けた。

要するに、行為をしたことにより、行為の意味を知り、行為者が現れるということだ。
行為するものを他者が客体として確認することはできるが主体としての行為者は行為後において自らが主体として存在することを確認する。

おぉ!なんか難解な文章になっちゃった!!

簡単に言うと、何かをする前には、もちろん行為者はいないし、行為をする主体というものも存在しないということだ。

とすると、アイデンティティとはただの反応なのだろうか?
いや、私は「記憶」も大きな影響を与えていると思うんだけど。

生物学的システムとそれに伴う行為

社会的な意味付けの付与と社会的価値観の内在化

心理的機能

自分のしるし(アイデンティティ)

という流れではないかと思う。
これをグルグルして、自分のしるしを維持している。

なんか、ここに来て、私の中の心理学とフェミニズムが近寄ってきた気がする。

自分のしるしを強固に知るために、生物学的システムを都合のいいように解釈していったのが、近代の科学だった。

近代以降、主体として存在できたのは「男」だけであり、「女」はこのぐるぐるシステムとは切り離されていた。
だから、このぐるぐるシステムはもともと「女」を想定していないので、どんなに頑張ってこのぐるぐるシステムに入り込もうとしても跳ね返されてしまう。

「だって、女は子ども産む性でしょ?」
という、切り札として使われる言葉に乗っかるな。


一番最初の方で、「連帯」についての記述がある。
連帯の場にアイデンティティは重要でないということ。
やっと納得できた。以前にご指摘を受けていた部分で、理解できたのはよかったと思う。



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