女嫌い

「女ぎらい〜ニッポンのミソジニー〜」再読了感想文②「非モテのミソジニー」

今日は私が貼った付箋の2枚目。p53 4章「非モテのミソジニー」。

「非モテ」という今やちょっと手垢がついた言葉だけど、この本が出たころは結構ホットなトピックだったのかなと振り返る。ちょっと前は「キモくて金のないおっさん」っていうワードだったけど、意味するところはほぼ同じだと思う。ちなみに私は2017年のクリスマスにこんな記事をブログに書いている。「キモくて金のないおっさん」の話題 

上野は非モテ論者が使う「性的弱者」という言葉の欺瞞をこれでもかと暴き出す。非モテ論者のいう「性的弱者」の主体は「男」のみであって、「女」は全く透明化されていて、ただの「記号」としてしか存在しない。そもそも「ブスは女じゃない」「デブは女じゃない」「ババァは女じゃない」「俺の性的欲望を喚起しない奴は女じゃない」と言いつつ、性被害に遭う「女」は多種多様であって、その「女」がどんな属性かなんてことは全く関係ないとバッサリ切っている。

「性的弱者」論は、「弱者」という用語を採用したことで、「社会的弱者」「少数者」とう問題系に接続することとなった。「弱者」は社会現象であり、「弱者」を「弱者」たらしめるのは社会の側(ここでは女性による選択)なのだから、社会が「弱者」の救済に責任がある、というなんとも奇妙なロジックである。このロジックは女性の側には全く反転しない(つまり、「女性の性的弱者を生んだのは男性による選択なのだから、その救済に対して男に責任がある」とはならない。)のだからここでもジェンダー非対称なのはあきらかである。p54

私は社会学の人ではないので、この「社会が負担すべき論」をなんでもかんでも持ち出してくる人たちとは相容れないところがあって、社会が変わればみんなうまくいく!みたいなのは違うと思っている。この「性的弱者」ってのはもちろん論外なんだけど、合理的配慮やユニバーサルデザインってのは例えばグラデーションがあるとして、その正規分布の2SDくらいをカバーするもので、3SD以上になったら個別の支援が必要だと思うし、その個別の支援は医学的な支援が必要なこともあると思うし。と現実的にやれることを増やしていく方に目が向く。

打線した。

私はどこかでも書いたけど、「女は分配される資源である」という信念がないと、「性的弱者」「非モテ論」ってのは出てこないものだと思う。その確信がどこから来るのか知らんけど、「全ての男には女がもれなくもらえるはずだし、そうならないのは社会の、女の問題だ」って言っているのと同じなんだよね。それも上野は反論していて、「結婚平等主義」ってのは1960年代に初めて(男の中だけで)達成され、以降それは維持できていないとのこと。それはきっと男にとってはまさに安楽だったのかなぁとは思うが、女にしてみれば、どうしようもない男とでも結婚させられる地獄と隣り合わせだったのだろうと思う。

この後、秋葉原の連続殺傷事件の犯人についての話が出てくる。犯人Kは二次元の女ではなく現実の女に興味があることが不幸だと言っていた。現実の女とは「人間」っていうことなんだけど、そこをどうしてもわからない人たちがいて、自分の母親や姉妹や同級生やそういうところで「現実の女」と接しているはずなのに、なぜ「彼女」というカテゴリー、要するに「性的な対象としての女」を別カテゴリーとなってしまうのか、全然わからない。それともそもそも母親や姉妹や同級生すら「人間」と思っていないのか。もし「人間」と思っていているのなら、人と人とのコミュニケーションを重ねていくしかない。そのスキルがないのならば、二次元の女と楽しく過ごすか、

売買春とはこの接近の過程を、金銭を媒介に一挙に短縮する(つまりスキルのない者でも性交渉を持てる)という強姦の一種にほかならない。p57

ということになる。

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