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【昔のやつその2】徴候記憶外傷

これもmixiの日記に書いてあったやつ。

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中井先生はやっぱり凄いなぁと思い知らされる

ハーマンに対する批判についてもある程度の中井先生なりの意見が書かれていると思われる。

内容は

1徴候
世界における索引と徴候
「世界における索引と徴候」について

2記憶
発達的記憶論―外傷性記憶の位置づけを考えつつ

3外傷
トラウマの治療とその治療経験―外傷性障害私見
統合失調症とトラウマ
外傷神経症の発生とその治療の試み
外傷性記憶とその治療

4治療
医学・精神医学・精神療法は科学か
統合失調症の経過と看護
「統合失調症」についての個人的コメント

5症例
統合失調症の精神療法―個人的な回顧と展望
高学歴初犯の二例
「踏み越え」について

6身体
身体の多重性
「身体の多重性」をめぐる対談―鷲田清一とともに

アジアの一精神科医からみたヨーロッパの魔女狩り


というような構成になっている。

すべて興味深いが、特に興味深かったのが「踏み越え」について。

ファーストキスから戦争までの「踏み越え」についての考察は鋭く、意識化、イメージ化、言語化、行動化の断絶は意味深いと思う。

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レビューここまで


最初は世界における索引と徴候について。

これは「世界が記号からなる」という命題に疑問を持つことから始まる。私は記号論は全くわからないが、予感と徴候、余韻と索引という今ここにはない事象に対する感覚・意識について書かれている。
正直、とっても難しくて読みこなせない部分も多くある。
たとえば「メタ私」であったり「メタ世界」であったり安永のファントム理論だったりする。
フロイトのいう「超自我・自我・エス」の三審級のうち、「超自我」は一種の「メタ私」であり、「エス」は別個の「メタ私」を成立させているというヒントを使ってもう少し考えてみようと思う。

次は記憶について


記憶は短期記憶と長期記憶にわかれ、さらに長期記憶は一般記憶とエピソード記憶、手続き記憶にわかれる。
私は知らなかったが短期記憶はRNA合成を必要とせず、長期記憶は必要であるということ。記憶のために細胞に何かしらRNAか蛋白ができているという。
ということは細胞に何か記憶とともに作られるということ。なんて面白い。

三島由紀夫は産湯の桶のがらを覚えていたというが、ふつうは忘れる。そして忘れている方が健康だろう。
これは3歳前後に記憶システムが変化するからだという。
この時期にこどもは二者関係の世界から三者関係の世界(成人文法法/整合性と因果性)へ一気に成長する。
これ以降、記憶は連続性をもち、途中抜けているところもあるが連続感覚がある。それ以前の記憶は覚えていても、断片的であり、映像的であり、ストーリーはない。
中井先生はこの幼児期の記憶と外傷性の記憶との類似を指摘する。
そして、この記憶機能は原始的な機能であり絶対であり、警告の機能である。

次は外傷について


ここで中井先生はハーマンの理論をほぼ採用している。
しかし、切り口はハーマンのようにフェミくさくなく、精神力動などを中心にしている。

たとえば面白いのは第一次世界大戦でフランスは第一次世界大戦時におった外傷によって早期に離脱したのではと指摘している。両大戦の感覚はわずか20年であり、人口減少で若い人がいない中、多くの人が第二次世界大戦で再出征した可能性が高いことがその根拠になる。
しかし、ドイツも第一次世界大戦では大負けしていたが、ドイツはそれを否認し、類似兵営生活を続けており、その中にはヒットラーもいた。
ヒットラーも第一次世界大戦時の外傷神経症を患っていた可能性は低くない。

特に注目したいのはこの記述である。

1914年から1972年まで、すなわち第一次世界大戦の開始からベトナム戦争の終結にいたる58年間、外傷神経症はほとんど全ての戦争との関連において論じられ、そして戦争自体の倫理性と関連されなかった。例外はホロコーストだけである。しかし、障害が女性の性被害、児童虐待、家庭内暴力と同一であることが明らかにされるとともに倫理的問題が不可避となった。PTSD問題は治療者が傍観者性を捨てて一つの倫理的立場をとることを強要する。この強い圧力下において視野狭窄に陥らないことは大きな課題である。(中略)レイプは女性の側のいかなる事情があるにせよ男性権力による女性支配であるというフェミニズムの糾弾なくして、精神神経症からPTSDの移行はなかった。そして、この指摘は当然、暴力による支配行為といしての戦争をも問題にせざるをえない。

なるほど。本当にそのとおりだ。私がもやもやしていたことがあっさりと文章で明示されてる。

さらに

わが国においても、被害者への関心は1995年以後、急速に拡大し、その後の諸事件でも心的外傷のケアが行われ、トルコ、台湾中部地震においては我が国の経験と技術の移転さえなされた。(中略)我が国の被害者意識への敏感性が追い風の一因となった。行政、司法も被害者に目を向けることが国民の信頼を維持する道であることを本能的に悟った。ただ、この加害者意識の否認とコインの裏表であることは、絶えず省みておもんばかる必要があると私は思う。

と続く。
女性だけでなく、男性の男性に対する性被害さらに隠微であることもきちんと認識されている。


ハーマン本人については彼女の民族性との関連を指摘している。


この章の最後は以下の結びがついている。


最後に、ある自戒を述べなければいけない。被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。(中略)私たちの心の奥底には、浮上すれば病的症状となるような漠然とした被害者意識が潜在しているかもしれない。その昇華ということもありうる。
社会的にも、現在。わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。

さてここではめっきり精神医学のことが多くなる。
特にアメリカの精神医学の推移が詳しく書いてある。
DSM-Ⅰは徴兵のため、DSM-Ⅱも主に徴兵のためで、一般医ができるようになっていたという。DSM-Ⅱは力動精神医学の人たちの影響で、すべての診断を「反応」としていたが、Ⅲにおいてはクレペリン流の精神医学体系を取り入れ、無理論の操作診断に変わる。そこで、病気はすべてdisorderに回収され、神経症的/精神病的の概念の区別を撤廃。
面白いのは人格障害がアメリカでは直さなくてもよいもの(日本でも司法では人格障害を病気とは認めてはいない)とし、境界例も境界性人格障害にしてしまって、医者の責任を放棄してしまった。
でも、PTSDの概念を入れると外傷であるということは治療の対象であり、さらに境界性人格障害の外傷率はアメリカでは8割に達するとなると、境界性人格障害は外傷性であるということもできるわけで、アメリカの保険会社はあたふたしているという。

ロフタフ夫妻の子供の証言の不確性についても書かれてあり、

彼らのしている実験は、証言の曖昧さ、人間の目撃体験の記憶の曖昧さをついている点では間違いありませんけれど、(中略)子供の記憶の、大人から見ての確かさというものは、非常に研究の遅れた状態だと思います。

となっている。実際に日本の場合は通常の検事が子供の審問を行っている状態だ。さらに外傷を言葉で詳しく話すということ自体が矛盾をはらんでいるのは、幼児期の記憶と外傷性記憶が類似しているということでもわかる。さらに恥辱感や罪悪感がある。

治療について

興味深かったのが「医学・精神医学・精神療法は科学か」の文章。
人間が人間を相手にしている限り、厳密な対象として扱うことができず、不確実性を最小とするというところでしか、科学ということはできないという。

これって大事。


「踏み越え」transgression
その逆は
「踏みとどまり」holding-on

キャサリン・ランガーという哲学者の言葉
複雑多様な関係の同時提示がイメージの特徴=representational(現示的)
直線的(一次元化)できる単純な論理的(因果律的)な関係→言語=discursive(論弁的)

プラトンのいう「イデア」がいきなり行動化するコース
行動の説明責任acountabilityが果たせない。
「よかれと思った」「大丈夫と思った」と言われる場合、はっきりと言語化、表象化されてからではない。
これは家庭内暴力や一部のハラスメントの底にあり、一種の合理化のもととなっている。

この中でとっても面白い実験結果がかいてあるんだけど、アメリカの神経生理学者のベンジャミン・リベットによると
人間が自発的行為を実行する時、意識は時間をおいて、その意図を知る。しかも、意識は自分が進退に行動するように指示したと錯覚する。
という。

どういうことかというと、その主張の根拠

・脳/精神全体の情報処理機能(「自分」の機能)と意識の情報処理能力(「私」の機能)との格差に帰する
・感覚器からの入力を脳が捕捉して情報処理する能力は毎秒1100万ビットであり、意識が処理できる量はわずか40万ビットである
・自由意思という体験は「自分」が私に処理を任されている時に起こる
・瞬間的判断においては「私」とその自由意思は一時停止し、「自分」が脳全体を駆使して判断する。


身体について

中井先生は身体の多重性について28の機能を挙げている。
どれも面白いけど、ひとつあげるなら「暴力と身体」
暴力によって、ばらばらになりかけている何かがその瞬間だけは統一されているという感覚。


最後魔女狩り。


あぁあ、すごく長くなっちゃった。
もっといろいろ書きたかったけど、今日はここまで。
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