女嫌い

「女ぎらい〜ニッポンのミソジニー〜」再読了感想文①

twitterでフェミ・ジェンダー本bot(@feminismbookbot)というアカウントがあって、それをフォローしているんですが、そこでよく流れてくる「女ぎらい」の短文。読むたびに「そうそう!」と思うので、再度読みたくなって読んでみた。

折しもその頃は「女とはなんなのか?」ということが私の中で大きくなっていて、なおかつ東大の祝辞で上野千鶴子が話題になっていた。発売された当初に購入してすぐに読んで、その時もかなりよかったなと思っていたのだけど、今回はいろんなことがあったので、新しいというか、今まで気がつかなかったものも読めたのではないかと思う。

サムネは私が撮った画像でこの本にはフェリシモでもらった付箋がたくさんついている。私は忘れるのが得意なので、こうしないとだめ。

今となってはホモソーシャルという言葉に何も新鮮さを感じなくなってしまったが、2010年に発行されたこの本の中で上野先生はセジウィックのアイデアに興奮している感じがする。

ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される。ここまでは、セジウィックがその卓抜な論理で、わたしたちに教えてくれたことである。(p19)
男と認め合った者たちの連隊は、男になりそこねた者と女を排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだけではなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているのかを逆に証明するだろう。(p29)

ホモソーシャルっていうのは、男が性的主体でいるための装置でそのためには、必ず客体が必要になり、それが女ということ。だから女がただの女体であることを何度も繰り返し確認することで、男は主体になりえて、主体になれない男は男社会(ホモソーシャル)の中から弾き出される(これがいわゆる弱者男性論の核だね)。そしてそのホモソーシャルから弾き出された人たちを「おかま(女のような男)」などと言って疎外する、また「童貞(女をモノにできない男)」と言って罵倒する。

上野先生はホモソーシャルのことを色々言っていたのに、「ところで〜」と話が代わり、「第三の性」については言及する。境界線の話。ちょっと長いけど引用。

事実人間の歴史には、男/女の二項だけではなく、「第三の性」と呼ばれる男とも女ともつかぬ中間的なジェンダーの存在が知られている。(中略)だがこのカテゴリーの人々には共通点がある。第一はかれらは生物学的には男であること、第二は女装などの女性性の記号によって「女性化」されていること、第三はしばしば宗教上の儀礼的役割に従事するのみならず、(男性相手の)売春に従事していること。かれらは「男でありながら、男になりそこねた男」「女性化された男」であり、かれらの存在意義はもっぱら男のために「性的客体」となることにある。(中略)「第三の性」とまちがって呼ばれているカテゴリーは、男と女の中間にある性ではなく、性別二元性のもとのサブカテゴリーだということだ。(p29-30)

ここで一番「ああそうだな」と思ったのは以下の一文。

男だけが「第三の性」に移行することがありえ、女が「第三の性」に移行することがないのは、逆に性別二元制がいかに強固であるかを証明する。

ほんまやな。

引用だけでこんなに長くなってしまったけど、それ私の付箋1枚目なのよね。第1章は「女好きの男」のミソジニーっていう題で、女好きの男は男からの視線が大切である、男から評価される男になることが目的。女好きはモノにした女の数でその優劣を評価するっていう全く何も新しい話でもなく、かつ未だに「ナンパアカデミー」とかにも通じる話。

付箋2枚目は次に書くわ。

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