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服飾の専門学校に行くが行けなくなる

メイド喫茶のバイトでコスプレ衣装を作ったことをきっかけに、服飾の専門学校に行こうと思い、私は慌てて専門学校を探した。

とは言え、都内なので、服飾の専門学校はいくつかある。
有名どころの文化服装学院、ドレメ、モード。
学校見学にも行った気がするがそのあたりはよく覚えていない。
結果、私は恵比寿にあエスモードジャポンに行くことにした。

何が決め手だったかは覚えていないが、パリに留学できるかもと、淡い期待を抱いていたような気がする。(パリ校との交換留学制度があった)

そもそも、私は矢沢あいの『パラダイスキス』という漫画が好きで、服飾学校に憧れはあった。デザインは全くできないが、パタンナー(デザイン画から型紙を起こす人)になるのも悪くはないかなと思ったのである。

また、私の母親は縫い物がとても好きで、子供の頃から母はよく服を作ったり、刺繍をしたり、編み物をしたりしていた。
母親が作った服を着させられていたし、ジェニー人形の服なども母が大量に作っていた。(子供のためというより完全に母が好きで作っていた。今でも作っている。ジェニー人形はうちに50体以上ある。バザーとかによく服を出していた。)

そして、私の祖母は家庭科の先生であったため、母以上に縫い物編み物和裁なんでもできた。祖母は自分の着る服はほぼ自分で作っていた。

そんな、家庭で育ったので私にとって縫い物は身近だったし、あの家で『許可が降りていた』行為の一つでもあった。

ただ、ここまで書くと私も服や縫い物が好きそうに見えるかもしれないが、私は、祖母や母がいろいろ教えてくれはしたものの実は子供の頃はあまり興味をもって縫い物や編み物を行っていない。そして、私は服に当時そこまで興味がなかった。
18歳まで、メンズの服を、母から買い与えられている服を着ていた人間でファッション雑誌などもほとんど見たことがなかった。
着ている服に対しての、気持ち悪さや場違い感はあったものの、この服が着たい、こんな格好をしてみたいなどの、能動的な意欲は一般的な服に対してはあまりもっていなかった。

ただ、コスプレ衣装を作るのは大好きだった。
ドレスのような非日常的な服が好きだった。

私はおそらく服飾学校にコスプレをしたい自分を肯定しに行ったのだと思う。学校に行っている当時でもコスプレなどしてはいけないと思っている部分があった。

こんな気持ちで服飾学校に入ったので、入ってからちょっと困ることになる。
というのも、服飾学校に来ている子たちは皆服が大好きなのだ。服飾学校の子達の服装は本当に自由を極めていた。
そんな、一人めちゃくちゃダサい格好で通う自分。
その辺の温度差は感じたが、ただ服飾学校の子達はみな、そういったことを気にしないタイプの子達だったので、居心地はよかった。
また、先生たちも今まで自分が通っていた『学校の先生』とは一線を画す現場のプロの人たちで、今まで考えもしなかった視点で考えることを教えてくれた。服飾学校にいた2ヶ月間は本当にいろいろ勉強になった。

今考えれば、コスプレがここまで商業として成り立つようになっているので、頑張って卒業してコスプレ衣装を作る仕事に就けばよかったかなとも思う。(映画や舞台の衣装管理の仕事は考えていた)

そう、私はこの学校にせっかく入ったのに、2ヶ月間しか在籍しなかった。
やめるに至ったのはメンタルの限界だ。

学校の授業自体はそこそこ楽しかった。特にパターンや縫製を行う授業は楽しかったが、課題の量が尋常ではなく、課題の締切日が近づくと徹夜が続くような状態だった。

また、デザインの授業もあったのだが、デザインをかけと言われても私は描くことができなかった。真っ白の紙に何かを描いていくことがなかなかできなかった。
それは、私が服に興味がなかったため、自分の中にストックがまったくなかったこともあっただろう。
また、状態としては、文章が書けなかったり、絵を描くことができなかったりすることと同じで、真っ白な紙と向き合うことがとても怖かった。
なにも出てこないのだ。デザインの授業は怖かった。

そして、その状態と並行して、その当時付き合っていた、BMWさんの書類送検や、性病騒ぎが勃発し、もともとの鬱や過食衝動も治っていたわけでもなかった私は、5月にメンタルの限界に達した。

ある日、朝起きて全く動けない状態となった。
立とうとしても体がぐにゃんぐにゃんになってしまい、起き上がることもできない。それでも学校を休めば授業の内容がわからなくなる。それくらい、服飾学校の授業スケジュールは過密だった。
なんとか動こうとしたが、その日は動くことができなかった。
学校を休んだ。

次の日も状態としてはあまり変わらず、体は自分の意志に反していうことをきかなかった。

少し話がずれるが、この時、私は一瞬父親の愛情に触れた瞬間がある。
が珍しく心配してくれた瞬間があった。起きあがろうとしても起き上がれなくてもがく自分を咄嗟に抱きしめてくれたのだ。
この時は父は多分何も考えてなく、本当に咄嗟に動いたのだと思う。
だからこの瞬間私は父親の愛を感じた。
この時のこの体験があるので、私は父に関してはいろいろ許している部分がある。一瞬一回でもいいのだ。子供とはそういう生き物なのだと思う。

話を戻そう。この日私は父に付き添ってもらいながら、なんとか家を出て大遅刻ではあるものの、学校まで行った。
授業はすでに始まっていた。私は授業中の教室に後ろから入ったのだが、その瞬間ひとり入り口で泣き崩れてしまった。
もう、自分で自分をコントロールできなくなっていた。
そんな状況で授業に参加できるわけもなく、結局授業には参加しなかった。
心配して友達だったか先生が話しを聞きに来てくれた気がする。よく覚えていない。

その日を境に私は学校にいくことができなくなった。

エスモードに入る際、入学金の100万円を親は振り込みではなく、窓口で私に支払わせた。いくらかかっているのかわからせるためだったらしい。
封の付いている100万の束をあの時初めて触った。
結局100万払って1ヶ月ちょっとである。入学するにあたり、高い工業用のミシンなども買ってもらった。予備校もそうだが、親には申し訳ないことをしたなと思う。

今振り返ると服飾学校に行くことは結構みんな応援してくれていたと思う。母方の祖父母なども入学祝いをくれたりした。
学校を辞めることになっても、親族は私が精神的に病んでることをわかっていたので、そっとしておいてはくれていたが、せっかく応援してくれていたのに、悪かったなと今は思える。

当時、私はまだ、コスプレを自分の中で許可できていなかった。
なので、服飾学校に行っていた時もパターン専攻にいって、オーダーメイドのテイラーにいこうとか真面目なことを考えていた。
コスプレ衣装を作る仕事を目指していたらもう少しモチベーションも上がったし、楽しかっただろうし、食らいついてでも続けていたような気もする。

今、もしもう一度行けたら多分最後まで通うだろう。
当時それが難しかったのはわかっているので、しょうがないとは思うけれど、服を作ることは嫌いではなかった。

エスモードにいた一瞬に見聞きしたこと、出会った人、経験できたことは本当にとても貴重で、あの1ヶ月ちょっとはとても大きかったと思う。
エスモードに行けてよかったし、先生にも、クラスの皆にも会えてよかったと思う。






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