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獅子の挽歌014

中井千草は昨日の出来事を思い出していた。卒業式の後、クラスメイトとカラオケに行った時の事だ。
自分に絡んできた不良の二人組の事を。そして、その二人を瞬く間に倒した男の事を。
それは千草にとって恐ろしい体験だった。
女子高で育った千草は暴力沙汰とは縁がない人生を送っていた。
生まれて初めて目にする暴力。映画や漫画とはまるで違うものだった。大の男がえずきながらうずくまる姿は千草の脳裏にしっかりと焼き付いていた。
ただ、あの男の使った“技”あれは暴力とはまた違う、そんな気もしていた。
一人目の男こそ、えずきながら地面に伏せたものの、二人目の男は傷付けずに“制圧”していた。
目の前で起きた事象に恐怖は覚えたが、あの男には嫌悪感はない。暴力が持つ野蛮さをあの男から感じなかったからだ。また、不良二人から自分を助けるという勇敢さに好感すら持っていた。

“ちゃんと礼をせず立ち去って申し訳なかった”
“あれは空手のようなものだろうか”

そう思った。

武術や武道、格闘技と言ったボキャブラリーが千草にはなかった。言葉自体は見聞きしたことがある。しかし日常の中でそういった物に触れる事が殆どなかったのだ。
しかし“空手”は弟がならっているらしい。
千草にとって、この世のありとあらゆる格闘技の中で“空手”だけは多少親しみのあるものだった。

千草はふと時計に目をやる。18時30分だ。

“もう、こんな時間だ”

この日、千草は空手道場へ弟を迎えに行く約束をしていた。田舎は広い。近所に習い事ができる場所があるとは限らない。家族の送迎は多くの小・中学生にとっては必須だった。

早い段階で、看護学校への推薦入学が決まった千草は、在校中に運転免許を取り終えた。
この日は共働きの両親の仕事が遅くなるので、千草が迎えに行く事になったのだ。

自宅から車を走らせること20分、「日本空手道 桜獅館」という看板が見えてきた。道場の中からは小・中学生の「セイッセイッ」という気合が聞こえる。暴力沙汰は嫌いな千草だったが、空手という物がいったいどういうものなのか、興味があった。

駐車場に車を停めて降りると、少年部の保護者達が稽古の様子を窓の外から見学していた。千草も同じように窓から道場を覗く。

20名程の子供達が整列して、正拳突きをしている。――無論、千草は“正拳突き”という言葉を知らないが――

その中に弟、一樹(いつき)の姿も見えた。この春、中学三年生になる一樹は茶帯を締めている。小学生三年生から通い初め、今では一級だ。

“中学生のうちに黒帯になる”

一樹はよく、そう言っている。

ふと目線を、前方で指導している大人の方へ向ける。
若い男だった。体格は良いが、引き締まっているのが道着の上からでもわかる。恐らくは縮毛矯正をかけたであろう、直毛で、暗めの栗色の髪をしている。目は少し細長く肌は色白く、整った顔立ちをしていた。
若いのに、少年達に指導するその姿は凛々しく見えた。

その男に、見覚えがあった。つい昨日、千草を不良二人から助けたあの男だ。

“やっぱり空手だったんだ”

そう思った。

「それじゃあ今日はここまで。皆気を付けて帰るように。お父さんお母さんがまだ迎えに来ていない者は、道場の中で待ってて良いからな。寒いし、外は暗いからな」

そう子供達ににこやかに話す男を見て、男への好感は増した。
少し怖いが、男と話をしてみたい。そう思った。
千草の脳内に、警戒と好感と興味が混在していた。

「姉ちゃん」

声の方を向くと、弟の一樹が立っていた。

「腹減ったから早く帰ろうよ」

「そうね。でも先生に挨拶してくるからちょっと待ってて」

「いいよ、そんなの、恥ずかしいよ」

一樹は顔をしかめながらそう言う。中学生くらいの男子というのは、女姉弟や母親の事を恥ずかしく思う。そういうものだ。

千草は一樹をわかったわかった、とたしなめて、道場の戸を開ける。
あの~、と少し覗き込むように顔を出すと、男がこちらに気付いた。

はい?と小走りで男が向かってくる。

「あ、あの、中井一樹の姉です。いつも弟がお世話になっているのでご挨拶をと。」

「それはそれは、御丁寧にありがとうございます。」

男はどうやら、千草が先日助けた女生徒であると気付いてないようだった。男が締めている黒帯に目をやると「金 青花」と書かれている。

「えっと…きん せいか先生でよろしいでしょうか?」

恐らくは在日朝鮮人なのだろうと、千草は察した。千草自身に人種差別の意識はないが、千草の父親はいわゆる「嫌韓」だった。
国内で行われた在日朝鮮人・韓国人の犯罪や、かつての朝鮮高校の暴力沙汰、北朝鮮による拉致、そういった事を幼い頃から聞かされていた千草は、意識せずとも多少の警戒心を抱いてしまう。

「日本語読みだとそうなりますね。セイカと呼ばれることもあります。正式にはキムチョンファと言います。韓国でも日本でも女の子みたいな名前なんで、ちょっと恥ずかしいですが、気に入ってるんですよ。」

チョンファはそう言って照れ臭そうに笑った。その笑顔は千草と同じ年頃の男子の、あどけない笑顔だった。千草の警戒心が和らぐ。

「あの。先日はありがとうございました。」

千草がそう言うと、チョンファはキョトンとしていた。

「えっと…」

と言葉を詰まらせる。

「あの、カラオケで助けて頂いた……」

千草の言葉にチョンファは細い目を見開いて驚く。

「あーーー!!あの、怖い思いをさせてしまってすいませんでした。」

チョンファが慌てて頭を下げる。
た。その慌てた姿は少し、可愛らしく思えた。
不良達に言った“時計仕掛けのオレンジって知ってるか”という、気取った文句も、不良を倒した時の凄まじさも、指導する凛々しい姿も、今目の前で見せてる、頼りなさとあどけなさも、千草は昨日から今日まで、チョンファの多くの顔を見た気がしていた。
そして、昨日会ったばかりのチョンファに惹かれ始めていた。

「いえ、少し怖かったですけど、カッコよかったですよ」

千草はそう言ってニコッと笑う。少しチョンファの顔が赤みがかる。

「私、中井千草っていいます」

「あ、千草……千草さんですか」

女性慣れしていないチョンファは少しどもり始める。

「千草、でいいよ。どうせ昨日高校卒業でしょ?多分同い年だし」

千草はくすりと笑う。
チョンファは“千草”と呼ぶことは出来ず、少し黙り込む。

昨日は気付かなかったが、千草はかなり容姿端麗だ。セミロングの艶やかな黒髪、透き通るような白い肌、か弱い程細い身体。チョンファも千草に惹かれ始めていた。
男とは悲しい程に単純だ。

“空手に先手無し。女を口説く時は先手必勝だぞ。チョンファ。”

チョンファの父がよく、そう言っていた。

「あ、あの、今度の日曜日、お茶でもどうでしょうか、」

金青花(キム・チョンファ)。若干18歳。生まれて初めて、女子をデートに誘った瞬間だった。

「はい、喜んで」

そう余裕そうに笑う千草もまた、初めてデートに誘われたのであった。

二人は連絡先を交換し、千草は一樹を車に載せて帰っていった。

チョンファはサンドバッグを蹴り込む。

「師範代、気合が入っていますね」
「ああ、徹真の大会が近いからな」

そんな会話が、道場生の間でなされていた。それが10代の男子特有の「恋愛からくる謎のやる気」だとは彼らは知る由も無かった。

余談ではあるが、その日最古参道場生の増田健児二段は、チョンファの左ミドルからの左ハイキックでノックアウトされている。

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