見出し画像

戦国武将に学ぶ!No.30~石川数正~



”軍師” こと、株式会社GUNSHIコーポレーションの社本です。


このnoteでは経営者の軍師としての目線で、
これからの時代を生き抜く戦略を発信しています。


私は日ごろより周りの方々から
”軍師” というニックネームで、
お呼びいただいています!(笑)

社名であることもその理由ですが、
私は自他共に認める歴史好き!
とくに戦国時代が好きです。


今回は、私が好きで見習っている、
学んでいる武将や軍師を紹介するシリーズ。


ぜひ最後まで楽しんでいただけたら幸いです。



■家康を「裏切った」武将?


今回も三河武将の一人、
石川数正いしかわかずまさをピックアップ!


大河ドラマ「どうする家康」にも
登場していますが、
今後どのような描かれ方をするのか
楽しみな武将の一人です!


前回、前々回も三河武将を
ピックアップしていますので
繰り返しになりますが、
三河武将というのはとにかく
忠誠心が高い!



石川数正は徳川四天王には
数えられていませんが、
それに匹敵する忠誠心の高さを
持っている武将でした。


しかしこの石川数正…


家康の主要な家臣団の中では珍しく、
最終的に家康のもとを離れる
武将なのです…!



家康が幼少期の頃から
共に過ごしてきた数正は、
徳川家の繁栄を「交渉力」で
支えた人物で、有名なところでは
織田信長との清州同盟でも
その力を発揮しています。


1584年、小牧・長久手の戦いという、
家康と秀吉が唯一直接対決をした
戦が起こりました。


この戦は最終的には和睦したのですが、
「この戦だけは絶対にしないほうが良い」
と、戦が起こる前から唯一家康に進言し、
反対していたのが数正でした。


しかし、周りがこの戦に臨む姿勢を
示したため、一人反対した数正は、
徳川家臣団の中で孤立していくことになります。


今川家の人質だった頃から
家康に忠誠心を尽くした数正でしたが、
こうしてこの戦の後、家康のもとを離れ、
秀吉の家臣になる道を選びます。


一見すると裏切ったように感じますが、
家康のもとを離れた理由は
実ははっきりとはわかっていません。


秀吉と交流する中で
秀吉の素晴らしさに気づき、
ついていくことを選んだのではないか、
など、その見解はさまざまです。


しかし忠誠心の高い三河武将ですから、
やはり理由があったのではないかと
私は思ってしまうのです。

■すべては徳川家を守るため



本能寺の変で織田信長が倒れた後、
豊臣秀吉の勢いは増すばかりでした。


その勢いを警戒した家康は、
秀吉との交渉事や情報収集を
数正に任せました。


ここからは私の推察ですが、
数正は秀吉と接する中で、
「この人と戦ってはいけない」
と、誰よりも早く気づいたのだと
思うのです。


情勢を読み、秀吉と戦うことは
徳川家にとってリスクになると、
誰よりも強く感じていた。
だからこそ、小牧・長久手の戦いを
起こさないように進言したのです。


しかしこの一件で
孤立してしまった数正の意見は、
今後聞き入れらない可能性がある。


そして徳川家のお家事情から
家康の戦略まで深く知っている
数正であるからこそ、
「自分が豊臣家についていれば、
徳川家との正面衝突を避けられる」
と考え、自ら徳川家を離れてまで
徳川家を守る道を選んだ
のでは
ないでしょうか。


数正は、農民たちによる一向一揆が
起こったとき、自分の家族が
一向衆側で戦おうとも、
家康の味方になってまで
仕えた人物なのです。


この三河武将としての
数正の忠誠心を鑑みると、
家康を裏切って秀吉に仕えた
というよりは、徳川家を守るために
敢えて家康のもとを離れていった

と考えるほうが自然だと
私個人は感じています。


また、関ケ原の戦いが起こる前に
亡くなった数正でしたが、
関ケ原の戦いには息子が
参戦しています。


数正の息子は、家康率いる東軍として
参戦したので、このことからも
数正の意志は徳川家の家臣として
息子に引き継がれていたように
感じられます。


もちろん諸説ありますが、
もし自分なりの正義を果たすために、
周りから裏切ったと思われてでも
敵方に乗り込んでいったのだとしたら…


数正のこの生き様は本当に格好良く、
ロマンを感じます!!


さらに、裏切りに見せかけて
実は徳川家を守るために
出て行ったと、もし家康が
知っていたとしたら……?


このように考えていくと、
歴史は本当におもしろい!!


「どうする家康」での
今後の描かれ方にも注目です!!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?