見出し画像

りひとの歌ラジオの質問をきっかけに、なぜ歌うのかを考える

前置き

以前に、唱歌「赤とんぼ」についての blog の記事を紹介した、Stand.fm のこの番組。【オペラ歌手】りひとの歌ラジオ

この番組は、気軽に質問ができるのも魅力なのですが、先日、パーソナリティのりひとさんから、
リスナーの皆さん、
・歌を歌うことでえられる満足感。えられるもの
・えられるなにかってなんでしょう?
・なんのために歌を歌うのか
という質問が、リスナーに向けて発信されました。

いや、かなりずっしりした質問です。

日頃、いろいろ質問している者としては、これはきちんと答えなければ。そう思ったのですが、Stand.fm のコメントになじむような短い文章でまとまりそうもない。そして、これをしっかり考えると、あ、このマガジンのテーマ「単なる楽しみ“歌系”から自分観察」そのものじゃないか。

そう思ったので、この質問について、綴ってみました。

好きなことをするのに、「○○のため」は必要か

イギリスの登山家、ジョージ・マロリーの有名な言葉があります。
「なぜ、山にのぼるのか。そこに、山があるからだ」

好きなことをしているときって、ずばり、これじゃないでしょうか。

そうすると、歌を歌って何かを得ることなんかどうでもよく、歌うこと自体が目的になります。
好きなことをしているのです。好きなことが、目的ではなく、手段になる、というのも、考えられないと思います。

では、なぜ好きなのか

さて、そう考えると、好きだから、ここに歌があるから歌うという理屈ですが、ここに、ちょっと疑問を覚えます。

好きだから、なのです。

歌が嫌いな人は、ここに歌があっても歌わないと思います。だから、なぜ歌うのか、を考える時には、なぜ好きなのか、は大事な疑問だと思うのです。

好みは説明できない

しかし、これも、There’s no accounting for taste. という英語の格言の通り。むしろ、理由のある好きなんて、無理やり好きになっただけで、本当に好きではないのかもしれません。

余談ですが、「故意の恋は恋か」。という話題で学生時代議論しました。
故意の恋とは、誰かを好きになろうとして好きになった状態のこと。そうではなくて、気がついたら、特定の人が好きで、コントロールできない。そういうのが恋じゃないのか? という、学生らしいささやかな議論でした。
ささやかですが、恋に限らず、何かが好き、というのは、好きになろうと決めて好きになることもあるかもしれませんが、気がついたら好きだった、が、一般的なそれではないでしょうか。私の歌すきも、そんな恋ではなく、不可抗力の恋だと思います。

自分に当てはめてみる

好きであることは間違いなさそう

以上のことを、自分に当てはめてみます。
しかし、このマガジンで、自分の歌系の趣味との沿革を綴ってきましたから、ほとんど今までに綴り終わっています。詳細は、それを検索していただくとして、概要だけ書き出すと、

  • なんでも歌にしてしまう子供だった。
    だから、大好きであったことは間違いない。

  • しかし、父親のダメ出しが怖くて、人前で歌うのが怖くなった
    怖くなっても、人がいない環境では歌っていたし、時々作曲も楽しむほどという状態は継続していた

  • 大勢に混じってならば怖くない。という動機で合唱を始めた
    怖いけれど好きだから、機会が欲しかった

  • でも、合唱界普遍の課題、「若い男が欲しい」で、複数の合唱団に入ってはまっていった

  • その中で、男声がソロを務める歌に取り組み、一人で歌うのが怖かったから合唱なのに、一人で歌うことを克服することに着手
    嫌いなら、辞めたり拒否すれば済むのに着手したのですから。

こんな感じですから、好きということは常にぶれていなかったな、と思います。
しかし‥

歌が好きなのか、声の追求が好きなのか

このことは、このマガジンの過去記事でも何度か触れています。比較的最近のものだと、この記事で言及しています。

簡単に言えば、このマガジンのタイトルの通り、歌系の趣味は、単なる楽しみなのです。それなのに、私の趣味遍歴では多くが短期で終わっているのに、唯一の例外で、もう25年以上続いている。それは、この楽しみを追求することは、生き方に通じる、自分観察、自分の現在をしるのに、直結しているという楽しみもあるからかもしれない。と、そういう楽しみも感じているからだと思うのです。

ただ、そういう楽しみは、じつは、こういう結論に至ります。
実は、人前で歌って自分を表現することよりも、発声練習そのものの方が好きかも。と。

実際、そう思う瞬間はたくさんあります。
声の出し方、声の導き方(発声法は、声の導き、というお話が記憶に強く残っているので)を考えたり実践すると、社会の、生活の、周囲の、という、あらゆるものに繋がっていて、その凝縮のような感覚をしばしば覚えます。
だから、平均的合唱団の練習は、発声練習と称する時間がありますが、私個人としては、これだけで最後までやっていてもいい、と思うくらい、それが楽しかったりします。

でも‥

自己追求は社会と関係してこそ

突然ですが、修行というと、どんなイメージでしょうか。私の世代は、スポコンが支持されていた時代でもあります。そうすると、大体、山奥にこもって、ひたすら自分をいじめて‥みたいなのが、修行のイメージとしてなんとなくあるのです。ウルトラマン(多分、ウルトラマンA)ですら、怪獣に負けると、山籠りして、みたいなシーンがあったほど。そういう時代の子供でした。

でも、それで、人との関わり方を失い、孤立するような状態になったら、それは意味があるのか。と、いう疑問は私は感じます。山を訪れた人と、まともな交流もできない山籠り偏屈ジジイは、どんなに極めていても、私は尊敬できないな。そうなりたくないな。

修行というと大袈裟ですが、社会のこと、時代のことを自分なりに考えることは大切だと思います。しかし、自分の考えにだけ固執して、世間の意見が耳に入らなくなったり、自分の主張を受け入れられない人との交流ができないような状態で、なんの意味があるのか。

自分のことを追求したり、何かスキルを身につけたり、自分の意見をしっかりもつことは、それを持って、社会としっかり繋がってこそではないかと思うのです。

その考えからは、発声練習は楽しいし、充実するけれど、ご指導いただいている先生と自分だけの世界。そういう世界で、究極の声を求めるのは、(楽しいし、自分はそれで満足だけど)社会との接点を一切遮断した状態です。
社会とのつながりに活かすには、声を利用した活動、発信(ラジオパーソナリティもそうだし、声優もそうだと思います)や、活かした趣味があってこそではないでしょうか。

結論

  • 好きに、それをすること以外の成果は求めない。

  • 好きなことをすること、そのものが手段ではなく、目的。

  • なぜ好きかは説明できない。むしろ説明できる好きは、作り物かもしれない。

  • 自己観察、自分探し。そういうものに通じる、声の探求

  • 探求、追求するものは自分の世界に閉じこもっては意味がない。

  • 声の追求の、他者との接点の一つとして歌がある

好きだから理由はない。もう一つ好きなものが、自己満足に終わらず、社会との関係を保つ不可欠な要素に歌がなっている。

このあたりが、りひとパーソナリティの質問への答えでしょうか。

なお、25年そんなこと考えていることと、修行の成果が上がっていることとは別問題という現実もあったりします^^;

トップの画像は、みんなのフォトギャラリーで、歌、で検索して出てきた中から、今回のイメージに近いお気に入りを選択しました。画像提供に感謝いたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?