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はじめての日本画~美しNIPPON展を観て~

 先日、京都駅にある美術館「えき」にて公開されている、水の美術館コレクション「美しNIPPON」展に行ってきた。横山大観や菱田春草、上村松園など、近代日本画の数々の画家による作品が展示されている。

洋画対日本画 

 そもそもわたしは日本画に興味はあったものの、日本画について特に詳しいわけではなく、日本画とは昔の日本人が描いた絵なのだろう、という理解をしていた。しかしその認識は違っていた。日本画は、西洋の文化が流入してきた時代に、洋画に対するものとしてつけられた名前なのだ。日本画は西洋の技術を取り入れながら、日本古来の画材や技法を用いて描かれる。つい最近、概論の授業の芸術の項で、モナ・リザが評価される理由の一つに、それまでの絵画と違って輪郭をはっきりとした線で描かなかった、ということがあると知ったばかりだった。そして、日本画にも、洋画の輪郭を線で描かない技法が取り入れられているのを確認出来て、学びが深まった。

日本画の光と陰

 展示を見て、わたしが惹かれた日本画の一面に、光と陰の様子がある。わたしはそこまで絵をたくさん描くような人間ではないが、たまに絵を描くとき、たとえば「夜を描いてください」と言われたら、月や星を描き、背景を夜の色で塗りたくるだろう。つまり、光っているもの、光を、まずは線で描こうとするのだ。しかし日本画は違った(おそらく他の絵画もそのような描き方をしているのだろうが、何分知識がない)。光は光を描こうとするのではなく、陰を描くのだ。陰を明らかにする。そうするとおのずと光が浮かび上がってくる。この光のあらわれ方は、日本画の大きな魅力ではないかと思う。日本画、と言われてわたしはまずおぼろ月のようなぼんやりとした太陽(あるいは月)を思い浮かべる。そのぼんやりとして浮かび上がってくるような光の有り様……この光が好きなのだ。そしてこの光のある日本画が好きだ。好きなのだが、なんとも、なんとも言えない様相なのである。

 展示の中でわたしベストの一二を争う作品……下村観山「朝日二瀧」ではまるで夕日のような朱色の朝日が描かれていて、わたしの脳に鮮やかに刻み付けられている。日本画は全体的に彩度が高くないにも関わらず、なぜ鮮やかをこれほどまでに訴えてくるのだろうか、と思う。「朝日二瀧」では、絵のほとんどを滝が占めている。絵上部の、ほんの少しの領域に朱色の日と、そして地面が描かれ、地面の真ん中を割って滝が流れる。滝は下に落ちていくほど明瞭でなくなり、世界との境界が分からなくなる。その分からなくなったもやの中で、はっきりとした鳥が描かれている。この鳥。この小さな鳥だけは、うすぼんやりとした世界の中ではっきりとした存在を放っているのだ。

日本画実践編

 展覧会を見て、日本画に魅了されてしまったわたしは、さっそく模倣をし始めた。

 これは、普段わたしが趣味で行っているcreative codingで作成したもの。日本画で描かれる日がどうしても好きで、自分でも作ってみたいと思った。上から下へと微妙な色変化をつけているのが個人的なポイント。鶴を細かく描写したかったが、座標を考えるのがなかなか難しかった。いつかしっかりと鶴を作ってみたい。

 展示の中で、季節の移ろいという項があり、そこでは一つの絵の中に一つの季節ではなく、例えば春と秋を同時に描いたりと、時の巡りを斬新に描いている絵があった。わたしはその時間の流れを、一日で捉え、上部に朝、下部に夜をうつした。ちょうどこの作品にとりかかった日が、広島原爆投下の日ということもあって、何が起こっても時間は移ろっていくのだ、という思いを込めた。そしてここで、太宰治『人間失格』の最後の一節を思い出す。

 

  いま自分には、幸福も不幸もありません。

  ただ一さいは過ぎて行きます。

  自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、

  たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。

  ただ一さいは過ぎて行きます。

  自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいて

  いの人から、四十以上に見られます。