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マガジンはレストラン

 こんにちは。ねじおさんです。

 今日はクラスメイトの作ったマガジンをひとつ紹介します。これも授業の一貫です。
 わたしは最近、文章に味覚があるととても素敵な文ができあがるんだな、という実感を手に持っていました。いろいろな媒体の文章を読んでいてふと思ったことです。しかし今ははっきりと形が見てとれるくらいの確信に変わっています。たとえばこの一節。

 私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを一つ摘んで食べた。一口噛むと案外固くって粉がボロボロ膝にこぼれ落ちている。――何もない。何も考える必要はない。私はつと立って神前に額ずくと、そのまま下駄をはいて表へ出てしまった。パン屑が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいい。只口に味覚があればいいのだ。
~ 林芙美子『放浪記』より

 文字がおいしいと感じられるのです。文章を味覚で味わうとはこんなに楽しいものなのか!と発見したのです。このようにわたしは最近ずっと、文章に味覚を取り入れることがテーマなのです。

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わたしが藤村玲乃さんのマガジンを取り上げようと思ったワケ

 藤村玲乃さんは自らのマガジンをこのように紹介していました。

『見てるよ。』と『美味しくいただきました。』というマガジンを作りました。どちらも視覚として取り入れ、味覚として味わい僕の中に通っていけばいいなという価値観と世界観のある記事を中心に選びました。文字を書き、すでにしばらくの時が経っている僕が新しい何かになり替わるためのマガジンです。

 この紹介文にある味覚というワードにわたしははっとせずにはいられませんでした。まえがきで述べた通り、今自分の中で流行のテーマだったからです。
 藤村さんはこのマガジンにある記事たちをどのような視覚で見、どのような味覚で味わったのだろう、と興味を持ちました。マガジンの中でも特に藤村さんの記事でとりあげていたnoteたちから、その視覚と味覚をわたしなりに感じとってみようと思いました。


以下わたしが味わうマガジン

と参考にする藤村さんの記事


あいまいなマドレーヌは血の味で、わたしの皮膚がほどけていく

 家永むぎさんの「『麻痺』 2021 / 01 / 07」という記事を味わいました。

 この記事でむぎさんは「麻痺」という言葉をたびたび口にしながら、同時に「代謝」という言葉も多く使っています。

3年前、冷たくぽっかりと肝心なものが欠けていた自分はどこにいるのだろうかと思う。それこそ代謝して消えてしまったのか。
~家永むぎ『麻痺』

 また、記事内では明確に視覚に直結する言葉も出てきます。「砂」や「みんなに色付けられた家永むぎ」ということばです。

 これらのことばたちからわたしが見た視覚と味覚はこちら。

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 トカゲさん。生きている間に脱皮を何度もくりかえします。脱皮しても存在はそのままそこに留まりつづけ、皮は自分で食べてしまいます。過去の自分を今の自分が食べるのです。過去の自分の存在はなくなりますが、それは確実に今の自分を育てる糧になっています。そしてまた脱皮をくりかえし大きく大きくなっていきます。
 トカゲさんは分かりやすく脱皮してくれますが、人間も何日か単位で細胞が総入れ替えされます。数ヶ月前にわたしがかぶっていた皮膚と今のわたしの皮膚は全く違うのです、それでもわたしの魂はここにある。でも前にいたわたしは完全になくなっているから、今のわたしが今のわたしだけで一人でいる感覚になることもあります。過去の自分を忘れかけそうになること、過去の自分を過去におきざりにしてしまうこと、そんな過去の自分に対しての申し訳なさもあるのかな、と思います。単純に過去の自分を忘れてしまうかもしれない不安も。

 新しい景色を見て新しい自分へとアップデートしていく中ではいろいろな迷いが生じます。ここでわたしは味覚を、感じたというよりかは贈呈したい。わたしが贈呈したいのはマドレーヌです。何を忘れてしまったのか分からなくなっても、すでに思い出せなくなっているものも、感覚によってその何かは戻ってくるかもしれません。そのときに聞いていた音、そのときに食べたものの味やにおい、そのとき感じた感覚。おなじ感覚を味わえば、その時の記憶がこちらへやってくるかもしれないしやってこないかもしれない。それはSNS含むメディアで記録しているものからは、なかなか思い出せないものなんじゃないかなと思います。

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 くちびるが荒れたとき、皮がめくれてしまって、口の中に血の味がしみこんでくることがあります。わたしから離れた皮はいつかのわたしであったことを思いながら、ゆっくり紅茶でも飲みたいです。紅茶にマドレーヌを浸して。


夏の切符はむぎのかおり

 夢の中に出てくる他人って、姿がないというか、存在だけが存在している感覚がないでしょうか。他人がそこに存在していることがわかる、けれども姿、輪郭ははっきりとしない。
 このショートショートを読んでわたしは夢の中の他人を思い出しました。

 藤村さんはこのショートショートを「お気に入り」と言っています。藤村さんはこのお話のどういうところがお気に入りと思ったのだろう?と思いました。この記事は解釈がいかようにもできます。人によってかなり異なる風景が描かれると思います。だからこそ、藤村さんがどんな景色を見ていたのかが気になりますね。

 わたしは、というと夢に浮かんでいました。秘密基地の様子もどことなく明瞭ではないし、このお話でわたしに向けて語りかけてくる存在、それすらもよく掴めないのです。けれどもよく見える景色もあります。わたしにとってそれは麦茶でした。

 麦茶の味覚、それだけがわたしにはっきりと訴えかけてくる風景でした。視覚が曖昧な中で麦のかおりがきらめくのです。
 麦茶のかおりは夏を運んできてくれるとわたしは勝手に信じています。夏。夏という存在こそ曖昧です。夏の記憶はぜんぶ暑さの中に溶けていて、やっぱりはっきりと掴めません。記憶に見える視界も、蜃気楼でゆらゆら歪んでいます。

 ショートショートの夜は、わたしはきっと夏の中だと思います。わたしの夢の中に秘密基地はあるでしょうか。そこへたどり着くことができたら、わたしは涼しさと、麦のかおりを現実へ持って帰りたいです。逃げてしまいたい現実も、曖昧の中に溶かし込んで、固めてアイスクリームにでもしましょう。


まとめ

 このように今回は藤村さんのマガジンを覗いてみました。いろんな味覚があり視覚があります。他人が気に入ったものをのぞき見するのもなかなかおもしろいですね。やはり、他人とは自分とは違う感覚を持っている人間なのだなと思わせられます。
 みなさんもぜひ藤村さんのマガジン群たちを味わってみてください。おいしいと思います。わたしはいろんな味を味わえてとてもしあわせです。


 わたしは不安です。この記事の文章意味不明なんじゃないか。(これはいつも思っていることですが……)ちなみにマドレーヌはもちろんプルーストのことです。わたしは失われた時を求めてを読んだことがないのに、記憶に関して適当なことを書いてしまいました。積読中です。いつか読めますように。

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