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社会復帰に向けてバイトを始めるー強迫、双極症ー闘病記【45】

生活の発見会への道のり

前回は森田療法についての私見を述べました。今回はその後のリハビリ生活について述べます。

森田療法の考え方を学んだことにより少し症状の改善が見られた私は、森田療法を学ぶ自助グループである「生活の発見会」に参加することにしました。「生活の発見会」について師に相談したところ、ぜひ参加するように促されたからです。

母親は参加することに対して心配していたのですが、師の勧めだということで許可してくれました。母親は現在でも師の言うことには間違いはないと思っているのです。母親は私より師に心酔しているのです。

さて「生活の発見会」は毎月県庁所在地で開かれていました。そこで参加するためには電車に乗る必要がありました。

そんな訳で退院後初めて電車にチャレンジすることになりました。久しぶりの電車は思っていたほど緊張しませんでした。そして無事に会場に行くことが出来ました。電車に乗って目的地に着くということは、人から見たらなんでもないことですが、私にとっては大きな一歩でした。

生活の発見会に参加する

「生活の発見会」では参加者一人一人が皆の前で自分の症状などについて話しました。参加人数は5名ほどでした。

私は人前で話すのが苦手なタイプでしたが、優しい雰囲気だったので、思ったよりスムーズに話せました。

みな同じような悩みで苦しんでいるので、何となく共有するものがあり、その場は安心感がありました。

それから月に一回の会合に出るようになりました。できるだけ毎月参加しました。また、そこで友達も出来ました。私にとっては本当にありがたい場所でした。

バイト前夜

そうこうしていると医者からバイトの許可が出ました。この時は非常にうれしかったことを覚えています。
アナフラニールを飲み始めた時から目標にしていた念願のバイトです。

歩くことさえ出来なくなっていた人間がバイトをするところまで辿り着いたのです。

バイト選び

しかし自分にどんな仕事が出来るのか分かりませんでした。接客業は苦手だということは分かっていたので、それ以外を探しました。

そこで見つけたのが清掃です。人とのコミュニケーションが少なそうで、一人で出来るというところに惹かれました。

また前にも述べたようにずっとお寺の掃除をしていたので、何となく出来るような気がしていました。師に相談すると「清掃は精神面にいい」と勧められました。

そして清掃でも旅館の清掃を選びました。ショッピングモールなどは人が多いのでやりにくいと思ったからです。

また最低時給のところを探しました。少しでも労働の負担を軽くしたいと思ったからです。

念願のバイトを始める

さてバイトの面接に向かいました。久しぶりの社会復帰でとても緊張しました。

たまたま面接してくれた旅館の支配人がとても優しい人でした。物腰が柔らかくて控えめでした。また、私の履歴書にブランクがあることなど、私にとって嫌なことは何一つ聞きませんでした。

この人の元でなら働けるかもしれないと思いました。そうして旅館の清掃のバイトを始めました。初日はとても緊張しました。念願のバイトだったので不安が大きく出て緊張してしまいました。

ところが緊張している私を見て先輩方がとても優しくしてくれました。私は本当にラッキーでした。その旅館で働いている人はみな優しい人ばかりでした。私はバイト先のメンバーに恵まれたと思いました。

みな年上の方ばかりだったので女性関係も問題になりませんでした。

初日は問題なく働くことが出来ました。すごく疲れましたが充実感がありました。トイレにさえ行けなくなった私がまた働くことが出来たのです。

とてもうれしくて、皆に感謝しました。そして一日一日を大事に働きました。ちなみに週に3回、1回4時間のシフトで始めました。

さて少し慣れた頃合いを見て徐々にシフトを増やしてもらいました。初めは働けると言うことに感動していたのですがだんだんと慣れてきてしまいありがたみが少なくなっていきました。

突然の内緒話

そんな頃に師から突然の内緒話を聞きました。内容は師が翌年より大谷専修学院の学院長になるということでした。

「もしよかったら一緒に行きませんか?」と誘われました。この時は師の気持ちとしては冗談半分だったと思います。

私は家に帰ってその話を家族にしました。すると母親が師について行きなさいと言いました。祖母も母親に賛成していました。

そして次に師に会ったときに家族がすすめていることを言うと「一緒に行きましょう」となりました。

それから浄土真宗の勉強を始めました。師からいろいろと本を借りて家で読みました。バイトと勉強を並行して行うことにしたのです。

医者

さてこの頃も病院には毎週通っていました。アナフラニールを中心とした薬物治療を続けていました。

医者はバイトを継続していることを褒めてくれました。また症状がよくなったので、医者は診察で笑顔を見せてくれるようになりました。

今まで険しい顔しか見たことのなかった医者が喜んでいることが私にはとてもうれしかったです。

ひどいうつ状態

ところがバイトを始めて半年ほど経った時にひどいうつ状態になりました。それまでも二週間に一回ぐらいのペースで落ち込み、寝ている時もあったのですが、バイトだけは行っていました。

ところが今度はうつ状態がひどく、バイトに行けなくなったのです。立ちくらみがするので内科で診てもらったのですがよく分からないということでした。

数日休んでもうつ状態はよくなりませんでした。あまりに休みが続くので、体調不良という言い訳が出来なくなりました。

困った私はバイト先に、精神病を抱えているということを告白しました。それに対して、上司は病気のことは分からないけれど、「どうやったら働きやすい?」ということを聞いてくれました。

私は病気に対して理解を示してくれたことをとてもうれしく思いました。それからは朝つらくて起きられない日は一時間遅刻してもいいと言われました。

理解のある職場で今でも本当に感謝しています。それからも調子が悪くなることがありました。その度に迷惑をかけていたと思います。それでも職場の理解があって続けることが出来ました。

治らない双極症

バイト以外の時間はひたすら浄土真宗の勉強をしました。学院に行く前にある程度知識を持っていたかったからです。やるべきことがあってそれをやれると言うことはとてもありがたいことでした。

一見傍から見ると順調に行っているように見えたかもしれません。それでも調子が悪い日が出てしまいました。理由はよく分からなかったのですが、今になって思うと無理をしていたのだと思います。

勉強をする時間を自分で決めて、それを守れないと罪悪感を抱いたり、自分を責めたりしていました。

バイトに行けるということに感謝していたはずが、いつしか当たり前になって、もっともっとと高望みするようになっていたのです。

そして休み方がまずかったとも思います。バイトがない日は勉強に時間を費やしていました。勉強は趣味みたいなものだからと思って休憩の時間とカウントしていたのです。

やらなければいけないという観念に苦しめられるということは趣味でなく、課題となっていたのです。しかし課題としてがんばったことは自分の実になっているので何とも言えない部分もあります。

学院へ

それから学院に行くまでに何度も調子が悪くなり、学院に行くのは無理だと思ったことは数知れません。

それでも浄土真宗を学びたいという気持ちは変わりませんでした。その過程で師や家族にはとても迷惑をかけました。それでも学院に行けたことには感謝しています。

そして2023年の4月から大谷専修学院に通うことになりました。大谷専修学院でもいろんなことが起きました。また、浄土真宗について学び、深く考えました。

学院でのエピソードや考え方の変化について書きたいことはたくさんあります。しかしまだ一年も経過しておらず、自分の中で整理できていないことがたくさんあります。

そこで一旦体験記はここまでとしたいと思います。
長い間お付き合いいただきましてありがとうございました。

次からは自分の病気を受け入れて生きていくヒントを書いていきます。

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