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綿あめを食べながら恐怖心について考えてみた

古い映画を観ていた。


山小屋に遊びにきたカップルが、呪いの音声テープにより悪霊を甦らせてしまい、恐ろしい目に遭うというものだ。


それを観ながら僕は、手に綿あめを握りしめている。


お祭りの屋台で売っている、2頭身のネコ型ロボットとか、あんこ入りブレッドヒーローとか、黄色の雷ねずみといった人気キャラクターが描かれた、ごみ袋めいた袋に入ったあの綿あめである。近所の縁日で、何となく惹かれて買ったものだ。


ふわふわした綿あめを口に運ぶと、一気に広がる甘さとくちどけが心地よい。


そんな幸せな口の中とは裏腹に、画面の中では悪霊に憑りつかれた女性が、白目を剥き鋭利な刃物を手に男性に襲いかかっている。


僕は一気に血の毛が引き、戦慄した。なんて恐ろしい映画だ…。ヒリヒリした緊張感が僕の中を満たしていた。


でも、この緊張感は過去に味わったことがある。僕が目の前の映像に釘付けになりながら、頭の隅で小学校時代を思い出していた。


***


幼馴染でクラスメイトのS君。


彼は運動神経が良く、頭もいい。


社交性があって、生まれ持ってのリーダータイプ。そのため、クラスの人気ものだった。


しかも、家が医者でお金持ち(ゲームやおもちゃをたくさん持っている)なうえに、学校から歩いて30秒、全力でダッシュすれば10秒かからないところに家がある。


これは、全校生徒を懐柔できるといっても大げさではない勝ち要素だ。S君はそんな激アツな小学生だった。


でも、S君は全校生徒を懐柔できなかった。なぜなら、彼は相当な変わりものだったからだ。


当時の僕たちのバイブルと言えば、「コロコロコミック」と「コミックボンボン」が揺るぎない二強、まさに風神雷神だった。


クラスのあちこちでは「どちらが本物の少年誌か?この先何年経っても色褪せず、読み続けたいのはどちらか?」という討論会が繰り広げられていた。


もちろん、どちらも本物の少年誌だし、数年も経たないうちに読まなくなるので、これは今考えれば全くもって不毛な議論である。


それをすでに達観していたからかどうかは知らないが、S君はその議論には一切参加しなかった。


なぜなら彼は、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」以外のマンガには目もくれなかったからだ。


周知の事実だと思うが、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」というマンガは、小学校低学年の子供が読むには少々シブ味が強い。内容が大人向けというよりは、ディープでマニアックなところを突きすぎているのだ。


連載当初はギャグ色が強かったものの、この当時はすでに落ち着いた作風にシフトしており、少年がときめくポイントは少なくなっていた。


それにS君の独自性は、好きなマンガの呼び方にも表れていた。一般的に「こち亀」の愛称で親しまれていたこの作品。


ところがS君は、

「今週の両津めちゃ面白かったぞ!」

「両津は98巻が一番面白い!」


という具合に、主人公である中年警官の名前をマンガのタイトルそのものとして扱うファンタスティックな少年だったのである。


そんな変わった一面を持つS君と過ごした、暑い夏の日のこと。


僕たちは、小学校のお泊り会に参加していた。


夏、合宿…とくれば、バーベキュー。からの花火。からの大浴場で小便の掛け合い。からの枕投げ。からの先生による説教…という流れが王道パターンであるが、もうひとつ欠かせないイベントがある。


そう、肝試し。僕はS君とペアを組み、学校の裏山に設けられた肝試しコースを廻ることになった。


当然、小学生向けなので何もない暗い道を進むだけだが、最大の問題は僕がとんでもなく怖がりだったこと。


当時の僕は、夜になると不安が心を覆い尽くし、窓の外すらまともに見られなかった。実兄がトチ狂って心霊写真のムック本を買ってきた日など、それが収納されている本棚にさえ近寄れなくなったくらいだ。


そんなヤツが挑む肝試し。簡単なわけがない。

スタート前から不安を掻き立てる妄想が膨らみ、恐怖心で帰宅欲求がピークに達していた。

もちろん今さら帰れるはずもなく、僕はガクガクと震えながらS君にしがみつき、歩き出す。


S君は「子供向けだし、何も出ないだろ」と余裕。というよりも完全にナメている。実際、彼の言う通りではあるのだが、僕の恐怖心が消えることは無い。


S君に引き擦られるようにしてやっとこさ歩き、「そろそろゴールか…?」と安心しかけた瞬間、事件は起きた。


真っ暗な山道の、さらに一段と暗くなった森の入り口。そこに差し掛かったとき、僕の足は完全に止まることになる。


何かが、森の中に…いる!


視界がほとんどないほど暗いため、はっきりは見えない。でも、何か異様な邪気をまとった“それ”が確かにいるのだ。


大きさは僕たち子供の腰くらいしかない。その時点でまず、人間の可能性は消えた。


霊・死霊・悪霊…。

いろいろな呼び名はあるが、この世のものではない何か。それは間違いなさそうだ。


でも、待てよ。もしかして、野生動物か何かでは?


そう思えば、山奥の森に存在しているのも説明がつくし、そのほうがオバケより何倍もマシだ。

そう思うことにした。そうだと信じたかったのだろう。


ただ、仮に動物だったとすると、別の問題が出てくる。動物にしてはシルエットがあまりに大き過ぎるのだ。


子どもの腰くらいの大きさの動物…となれば、犬や猫とは絶対に違う。もちろんそれより小さいウサギやタヌキなどの線も消える。


サイズ的には…ライオン?カバ?こんなところにいるわけがない。


あるとすれば…クマ…。


なるほどクマか。

確かに真っ黒だし、大きさも適当だし納得がいく。


いやーよかったよかった。


…いや良くねェ!


この大きさのクマに襲われればひとたまりもないじゃないか。もう考えたくない。そもそも今日、スケジュール空けとくんじゃなかった。


呪い殺されるオカルト的な恐怖と、喰い殺される現実的な恐怖。それに準ずるいろいろな思考と憶測が、首都高を走る車のようにビュンビュンと通りすぎていく。脳内はガヤガヤと五月蠅く、身体はガクガクと震えが止まらない。


二度と“それ”に目を向けることができなくなり、必死でS君を見る。すると、彼も気づいたのだろう、緊張した面持ちをしていた。


そういえば、S君のこんな表情を見るのは初めてだ。いつも冷静で素早い判断ができるS君にもこんな一面があったのか。


たぶん、彼も僕と同じことを考えているに違いない。僕よりはるかに頭の良いS君のことだ、さらに多くの、ありとあらゆる最悪の想定に脳内を支配されているのだろう。


頼むS君。いつものように最高のアイデアで僕を救ってくれ…!


切なる想いが伝わったのかどうかはわからないが、S君が何かを決意した表情で僕に目配せをした。


そして、声を発することなく口を大げさに動かし始める。


暗さもあったし、唇の動きを読み取るなんて小学生の僕には至難の業だが、極限状況の人は思いも寄らない力を発揮するものである。


僕にはS君が

「つ・か・ま・る・ぞ」

と言っているのがはっきりとわかった。


S君は声を一切発していないのに「このままボーっとしていれば、確実に捕まる。すぐに行動すべきだ」という音声が耳の奥に響いたほどだ。そして、S君の唇が再び動く。


「い・く・ぜ」


行くぜ、か。なるほど。かっこいい。


…いや待て、行くってなんだ?

突っ込む気か?それとも逃げるってことか?逃げるとすれば後ろなのか、それとも右なのか左なのか?

そこをきちんとすり合わせしておかないと、最悪の結末になるだろうが。説明!説明!


怖がりのくせに文句が多い僕は、S君へのクレームを心の中で叫び続けていた。僕が彼の言葉を受け取れたように、強く念じればS君の心にも届くと信じていたからだ。


でも、残念なことに伝わらなかった。だからといって声を出すのはこの場合、死を意味する。


緊張と沈黙を破ったのは、厭な水音だった。


ぴちゃん。


ぴちゃーん。ぴちゃん。

悪寒が全身に走る。

まるで、氷水に浸した刷毛で背中を撫でられたような気色悪さを覚え、いよいよ目頭に涙が溜まり始めた。


そして。また厭な音。


ガサッ!ガサガサッ!!


“それ”が、足元の草を踏み荒らし、ぐいーんと縦に大きく伸びた。


逃げろと本能が訴えるが、身体がピクリとも動かない。S君はいつの間にか、僕の2・3歩前に出ているが、立ち尽くしたままだ。


身の危険を感じた僕は、力の限り叫んでいた。


「うわああああ!!助けて!!!!誰か!!!!」


眼前に近づく“それ”。


そして、“それ”はこの世のものとは思えない奇声を発した。


「こりゃS。先生に向かってツバ吐くな」


…ん?日本語?しかもバカみたいなセリフじゃない?


肩透かしを食らった僕は、目を凝らして“それ”を見た。


担任の北川先生だった。S君が「やっぱり」と言い放つ。


そう。S君はひるんでいるわけでも、緊張しているわけでもなかった。

“それ”を見た瞬間、すぐに大人がうずくまっていると気づいたのだという。


そしてあろうことか、ツバを吐いた。


(さっき僕が「つ・か・ま・る・ぞ」と読んだ唇の動きは「つ・ば・は・く・ぞ」だったということだ)


こいつ、マジか。仮に生身の人間だとわかっていたとしても、そんなことするヤツがあるか。いくらなんでも豪傑すぎる。


僕は本気でそう思った。


北川先生も同じ思いだったのだろう。つかつかと歩いてきて、S君の頭を叩いた。

パコンと乾いた音。僕は思わず「おっしゃ」とこぼす。


その「パコン」がまるで催眠術を解く合図であったかのように、僕の中の恐怖心はウソのように消え去った。

あんなに暗く、何も判別できなかった山道が、昼間のように明るく見えたほどだ。


S君が、頭をさすりながら語り始める。


「どうだい?恐怖なんてものは雰囲気と環境をお膳立てして、気持ちを盛り上げていけば、何倍にも膨らんでしまう。けど、その本質は何てことはない。細っこい棒切れみたいなものでしかないんだよ。さぁて、戻って枕投げといこう!」


最後の一言ですべて台無しにしているが、この言葉は僕の価値観を変える大きな一言となった。


***


「ノスフェラトス カラミンナン カンダ…」

TV画面から、耳馴染みのない言葉が聞こえてくる。甦った死霊を再び封じ込める呪文らしい。

詠唱が終わると、画面いっぱいに展開していたカタストロフが消え去り、うそのように優しい朝日が血まみれの主人公を照らし出す。そして観ていた僕の心からも、恐怖は完全に無くなっていた。

この映画は、当然フィクションだ。

ラストの穏やかな景色こそが現実を象徴したものである。

そのあまりにちっぽけともとれる本質を仰々しい虚飾で満たすことで、ホラーという極上のエンターテイメントに昇華させているのだ。

まさに、S君の言葉通りというわけである。感情を最大限盛り上げるため、細い細い骨子に、これでもかと肉付けを施してある。

それを知ってから、僕はホラー作品が大好きになった。

ホラーの題材、つまり本質は大したものではない。

いかに「怖がらせるための要素」を膨らませることで恐怖心を呼び起こすことができるか。ここに全身全霊をかけてモノづくりをしている、その努力が称賛に価するからだ。

S君の存在は、僕の趣味嗜好をすっかり変えるに至るほど大きかった。

本質はどうあれ、自分を大きく立派に見せることは恥ずべきことではない。たとえ虚飾であったとしても、それを含めて好きになる人・惹かれる人がいるのは間違いないからだ。

右手を見ると、あんなにふわふわで立派な姿をしていた綿あめが、ただの細い割り箸に変わっている。

この綿あめを思わず買ってしまったのも、そういうことだったんだな。


僕は納得して、その細っこい「本質」を愛でていた。

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