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つくつくほうしの声が聞こえない

緑を見ると脳が活性化するらしい。本当かどうか知らないけれど。

今年の夏はつくつくほうしの声を聞かなかった。蝉の鳴き声は耳にしたけれど、つくつくほうし声は聞かなかった。自宅近くには大きな公園があって、たくさん色んな種類の木々があるのに、つくつくほうしはいないのだ。

去年の秋頃、ぼくは田んぼを見なければ県外に行けないような田舎に住んでいた。と言っても◯◯◯◯市といって、市町村の中では「市」に当たる。それに自分がすんでいたところは市内で一番に飲食店が密集している地域だった。たくさんの木々が生えているわけでもなく、ただただ田んぼがたくさんあるだけの田舎。そこには夏の終わりを告げるつくつくほうしがたくさんいたのだが、木々がたくさんあるぼくが今住んでいる場所にはいないのだ。

いや、実はつくつくほうしが鳴くのはもうちょっと先で、ぼくがそれを忘れているだけなのかもしれないし。そもそもつくつくほうしが都会ではその泣き方をシティボーイ、シティガールっぽく変えているため、田舎人であるぼくの耳には判別がつかないだけかもしれない。むしろ、ぼくが今この記事を書いている世界は永遠の夏の世界で、夏の終わりを告げるつくつくほうしなんて存在しないのかもしれない。

少なくとも、ぼくは今の環境にうまく適応できていないのかもしれない。言うまでもなく、住む場所が変わるということは、環境が変わるということだ。環境が変われば、これまで当たり前だったものが珍しいものになったりする。環境が変わることで、新しい知識が手に入れば、ものの見方が変わることだってある。

環境が変わった時、環境に自分を合わせるか、それとも環境を自分に合うようにするか、どちらかの反応を多くの人はすると思う。ぼくは、そのどちらに偏るのも良くないと思っている。

環境に自分を合わせるのは大事なことだけれど、それで満足すると自分の発見がなくなってしまいつまらない。環境を自分に合わせるのは、それは現在の環境を無視するやり方だから、結局うまく行かない。最初は環境に自分を合わせその環境をしり、そして、その環境をより良くするために自分のできる範囲で自分のやり方をそこに織り込んで行く方がいいと思う。それが本当の適応なのかもしれないし。

まだ蝉の鳴き声が聞こえる。まだまだ夏は終わらないんだろう。もしかしたらずっと夏のままなのかもしれない。このまま夏が続けば、ぼくは平成最後の夏にずっととどまってしまうかもしれない。まずは今の環境を理解しよう・・・そしたら平成最後の夏から卒業できるかもしれない・・・。たぶん。


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