私が神なら満員電車は作らない…


何度も申し上げているように、私は去年まで部屋がずっと散らかっていた。物を捨てることも下手だった。散らかりに山タイプと海タイプがあるとすればそこは荒れ果てた海。我々が引き起こした海面上昇を、我々の手で止めることは出来なかった。洗濯機の中のような部屋…といえばイメージがつくでしょうか?想像がつかなかった人は、その幸せを噛み締めてください。

さすがに服を仕分けするゾイと思ったときに採用したのは「じゃあ今日この服を店で見かけたとして買うの?」という自分なりの基準だった。これがかなり便利だった。買わない買わない(笑)捨てちゃお捨てちゃお(笑)GOGOGOGOGOGOGO……といった形で物たちを捨てることにまあまあ成功した。

昨年末に友人宅(片付いている)へ行ったとき、「あのね、服を捨てるから」と言って服を捨て始めた。思い出やまだ着れる感によって決心の付かないものが多いようだったので「じゃあ今日この服を店で見かけたとして買うの?」と言ってみたらめちゃくちゃ捨て始めた。清々しさの伝わる捨てっぷりはお見事だった。捨てさせ屋になった。

これもまた昨年、長く続いている恋人との関係を解消したいけれども、なんだか情もあり恋愛の関係以外でも関わっているということもありすぐ別れるというわけにも…でもいつか…という感じになっている友人(一般人だよ)がいた。私は「例えばその人と今出会ったとして付き合いたいって思わなくない?」と言った。その時は積極的に即刻の離別を促すというつもりはなかったのだが、次に会ったときにはもう別れていて、その理由は「今出会ったとして付き合いたいって思わなくない?」って言われて目が覚めたからとのことだった。適当な発言をしたわけではないけどなんかすごい発言をしてしまったな〜マジか〜と思った。別れさせ屋になった。

てかだって……服も物も人も、問い直して愛し続けたくないですか?❤️

今から始めたいと思わないものは、止めてしまった方が良い。世界を今からゼロから作れと言われて作らないであろうものは、無い方がいい(極端)。という説をあらゆる事柄に当ててみると、「うわ、これ、続いてるという理由だけで続いている…」という体制や存在や習慣やもう何もかもが浮き彫りになって大変なことになる。

例えば「紅白歌合戦」。私はJ-POPが大好きなのでもちろん大好きな番組でだけど、歌手を男女に分けて紅組と白組で戦わせるなんて、これ今NHKの企画会議に提出しても絶対に絶対に通るわけがない。2020年の人間が、わざわざやろうと思わない。MISIAさんのレインボーフラッグであるとか、氷川きよしさんの演出だとか……別にわざわざ「紅白」を超えていく必要は本当はないし、自由な未来を希望するならば、構造自体が無い方がいい。でも紅白を徹底批判しまくる人ってなかなかいない。なぜなら、慣れてるから。だから私も楽しんで見ている。当たり前ってことになってるから。みんな思い出が大好き。でも紅白が作るのは未来じゃないんだなあ…という気持ちになった。あと教育番組「おかあさんといっしょ」これも絶対に企画会議通らないよ。そんなタイトルありえない。

その流れで「自分が神様になって世界を作るとして、満員電車は作らないな…」って思った。作りたい人いないだろう。だからやっぱり満員電車って絶対おかしいんだよな。なんなんだあれ。


……みたいなことってたくさんあるよね!

そんなことを考え始めると、自分の好きな文化の中にも廃れるべきという判断が下されてしまう案件がいくつもあることが発覚した。上記の考え方は極論であり、全てをそんな根本的に問い直して止めたり捨てたりしたらやばい(やばくて何が悪いんですか?)。

だけど何かを捨てたいときとか、辞めたいとき、終わりにしたいことがあってそれを決断してしまいたくて強い理由が必要なとき「今これ買うか?」「今初めてこの人に出会って付き合うか?」「世界ゼロから作るとして必要か?」って問いかけてみると多分それすっきりした気持ちで捨てたり出来るんじゃないかなあ。私が今着てる服はいつ見ても絶対買ったであろう服たちだけになったわ。

断捨離とか断捨離彼氏とか、がんばりたければがんばってください。

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