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シルバーブレット

※この記事には性暴力の描写が含まれています

私がポルノを消費し始めたのは、11歳くらいからだと思う。
たしか8歳のときだった。週末のある朝、家族がまだ寝ている中、リビングに行った。週末だけはおはスタを観ることができるので、何も考えず、いつもの習慣で寝ぼけながらリモコンをオンにした。そこにうつっていたのはおはスタジオではなく、電車で痴漢をされる若い女性だった。とりあえずそのままテレビを観ていると、彼女は電車から降りた後、トイレに行って自慰行為を始めた。それまでアダルトコンテンツに触れたことはもちろんなかったし、画面の中で何が起きているのか把握できず、怖かった。でも、女性は電車内で嫌がっていただけど、自慰をしているときは気持ち良さそうで、その矛盾がとにかく不思議だった。ぼーっとしていたら画面はテストパターンになって、そこでようやく私は起きる時間を間違えたことに気づき、慌てて布団に戻って寝た。本能的に、今見たものを母に気づかれてはいけないと感じた。

私の小学校では、軽度の知的障害をもつ児童は授業のときだけ特別支援学級に通い、授業以外の時間は各クラスに戻ってくるシステムだった。おそらく「普通」の学校生活を経験させるための方針だろう。今では発達障害は世間的に広く知られているが、私が小学生のころはまだまだだったと思う。特にグレーゾーンの子供たちは、どのクラスにもいた記憶がある。私が初めて性被害を受けたのは小学校低学年のときだった。支援学級に通っていた男子児童が、限りなく黒に近いグレーゾーンの男子とタッグを組み、登下校中の私と友達を追いかけ、後ろから飛びつき、股間や胸を揉むという荒技だった。自分でもまともに触ったことのないプライベートゾーンを他人に揉みしだかれるのは、痛かったし、とても変な感じがして体に力が入らなかった。いくら子供といえど、男の力にはとても敵わなかった。死に物狂いで振り解いて逃げても、また追いつかれる。本当に嫌で泣き出したかったが、取り乱すことが恥ずかしくて、男子児童たちが去って、友達とふたりきりになっても何も言えなかった。もちろん、親にも言えず、ただ男子児童たちの関心がなくなってほしいと願うしかなかった。なにより、男子児童たちが本能のまま、動物のように私たちを追いかけ、自分たちの欲望をぶつける姿が恐ろしく、言葉に出来ないほど気持ちが悪かった。知的障害をもつ児童も日常的に健常児クラスにいなければいけないという学校の包括的教育方針のおかげで、私は障害をもつひとに対して健常児と同じことを求めるのはマナー違反と思っていたし、それは、圧倒的に触れてはいけない話題で、普段のクラスでも下手をすれば危害を加える障害児に怒ったり、注意をする健常児側が教師に怒られていた。健常児側が常に我慢や犠牲を強いられる環境にいた私は、性加害者たちに注意してはいけないと思い込んでいた。

そんなこんなで、性被害のことは、先生や同じクラスの子にも言えるはずがなかった。そのせいで、男子児童たちの被害に遭っているのは帰り道がほぼ一緒の私と友達だけだと思っていたが、ある日、ホームルームでクラスを良くするために意見を出し合おうという時間があった。そこでグレーゾーンの男子児童と一緒のマンションに住んでいた女の子が「男子のエロをやめてほしい」と訴えた。当時はセクハラや性加害なんて言葉は知らなかったので、性に関するものはなんでもエロと呼んでいた。私は人望がないのに目立ちたがり屋だったが、この「エロ」に関する出来事には恥の概念が作動し、何も言い出すことが出来ず、黙って女の子が言うことに力強く頷くしかなかった。性被害を受けていたのは自分だけじゃなかったことに安堵し、同時に女の子の勇気を尊敬した。当時の担任は生徒たちの母と同世代の女性だったので、言い出しやすかったのかもしれない。しかし、被害を聞いた担任は気まずそうに笑い、女の子をなだめるように「まあまあ」と言いながら次の話題に移った。私は失望したことを覚えている。もともと担任のヒステリックな面が苦手だったが、この件で彼女には嫌いという感情を越え、軽蔑を覚えた。屈辱的な経験をした私たちに対して、「まあまあ」で済ますことができる図々しさが信じられなかった。悲しかった反面、私の経験したことは、それほどでもなかったのかもしれないと自分の感性を疑った。今思えば、それは一種の自己防衛反応で、性被害をとるに足りないことと思い込むことで、なんとか自分の心を保とうとしていたのだが、これは私の性に対する考え方に大きな影響を与えた。

担任からお咎めなしだった男子児童たちは、いつも通り、私と友達を追いかけた。しかし、私は同じクラスの女の子の勇気を見習い、男子児童から触られそうになると「先生に言うから!」と叫ぶことで、彼らからの性加害はなくなった。彼らにも理性があったことは意外だった。本当は同じような屈辱的な目に合わせたかったが、動物相手に怖気づいた。仕返しはできなかったが、私は自分と友達を守ることができて、心底嬉しかったし、自分を誇りに思った。

小学校四年生になると、インターネットの普及に伴い、我が家にもパソコンが置かれた。最初は父のために導入されたものだったが、騒がしい私を黙らせる目的で、両親はたまにゲームをさせてくれるようになった。妹が保育園にあがってひと段落すると、母はパート勤めを始めた。それから私は学校から帰ると自分で家の鍵を開けて、母の帰りを待つ「鍵っ子」になった。しばらくすると、家のパソコンを自由に使えるようになったので、帰宅して宿題を終えると、パソコンでゲームをしながらテレビを観る毎日だった。ある日、学校から帰宅する途中、道のど真ん中に分厚い漫画本が落ちていた。あきらかに子供向けではなかったが、これはなんだと友達と盛り上がった。好奇心に負け、傘の先で本をめくってみると、大股を開いた裸の女性がどーんと出てきた。私は登下校仲間と叫びながら逃げたが、妙に興味が湧いた。私は唯一知っていた、エロという言葉をパソコンで検索してみた。最初はずらっと並ぶアダルトコンテンツにビビったが、毎日検索するうちに段々と抵抗がなくなっていき、私は動画の真似をして自慰行為をするようになった。徐々に私はゲームやテレビより、ポルノに触れている時間のほうが好きになった。最初は楽しかった一人の時間も次第に退屈になり、母が家を留守にする時間は増える一方だった。自慰をしているときだけ時間の感覚を忘れられたし、なんだか体の力が抜けてリラックスできた。

思い出すと、私は少女漫画雑誌やドラマで恋愛に触れるよりも、先にポルノを知った。私は母に似て夢見がちだったので、小学生のころは少女漫画に夢中だった。私は漫画を読みながら、こうやって人を好きになるんだ、こうして恋愛に発展するんだ、男子はこういう女子が好きなんだと漫画の内容をそっくりそのまま信じ込んだ。自分にはまだ縁がないけど、いつかこういう経験をするものだと思い込んでいた。両親の前で恋愛に関する話題は禁止だったので、現実的な話を聞く機会もなく、フィクションを疑う気持ちがなかった。中学生になると、性行為の描写がモロにある携帯小説や少女漫画が人気になった。その手の作品は必ず、無理やり男女の関係が始まる。女の子がイケメンに勝手にキスをされたり、いきなり俺に惚れさせてやる的なことを言われたり、レイプ加害者を好きになったり、いかに最低な印象から恋愛関係になって燃え上がるかのチキンレースが今よりもっと過激な時代だった。始まりが悪ければ悪いほど、ロマンチックとされ、乱暴度イコール愛の深さだった。

私はクラスの人気者になりたくてしょうがなかった。実際は注目ほしさに平気で嘘をついたり、ズルをしていたので、むしろ嫌われていたが、自分ではなぜ人望がないのか理解することはなかった。きっとカリスマ性が足りないんだ、と思い込んでいた。少女漫画の主人公は私の憧れとなり、お気に入りの漫画の主人公の話し方や仕草を真似し始めた。 漫画のように振舞えば、この子みたいに人気者になれると本気で信じていた。恋愛に関しても同じで、いつか運命の人が現れると思っていた。私の中で男性から「求められること」は一種のステータスとなり、自分の価値となっていった。嫌がることをされても最終的には幸せになれる、乱暴にされることは愛や恋の始まりだとどこかで思っていた。そう思えば、自分が幼い頃に経験した性暴力も、なんとなく綺麗事のように感じたし、どうってことなかった、と思えた。それどころか、私の中で性暴力は憧れになっていた。

私は結婚するまで、「自分がどうなりたいか」よりも「どう男性に求められるか」をずっと考えていた。男性に好かれるには、自分の意見はなるべく言わずに相手をたてる。乱暴なことをされても、それは愛される過程で、大したことはない。すべて世間が良しとすることを教科書通りにやったはずだったが、結果として恋愛は楽しくなかったどころか、自傷行為にはしるきっかけになった。

テレビでコンプライアンスの規制がかかるたびに、大袈裟だとか、そのまま信じるひとなんていないと言う人がいるが、はたして本当にそうだろうか。自分の思考回路がどう成り立ったか、思い出し、考えながら、自分でも相当アホな子供だったと思うし、こんな子供はなかなかいないだろうと思う人もいるだろう。しかし、実際に少女漫画の分野では「俺様」「ドS」「ツンデレ」などの専門用語で乱暴な恋愛を正当化している。相手がどう思うか関係なく行動し、女の子も最終的にその「暴力」を受け入れている。壁ドンや顎クイもそうだ。乱暴な行動と恋を結びつけて、少女たちの憧れをつくりあげる文化は、自尊心や自己肯定感を育む成長過程において、適切だろうか?子どもに対するメディアの影響力はとてつもなくて、特に2000年代のテレビは全盛期で圧倒的正義だった。女性を女体として扱うコント番組は大人気だったし、女性に料理に苦戦する様子を高齢男性たちが嘲笑う番組はいくつもあって高視聴率を叩き出していた。そんな番組をみて、女性の体をモノとして扱ってはいけないと思う男の子、料理ができなければ笑われると思わない女の子はどのくらいいるだろうか?

私が子どもの頃と比べれば、ジェンダーロールをもとにした番組は減ったと思う。少なくとも前面には出ていない、配慮を感じるレベルにはなってきた。しかし、ジャーナリズムが専門のはずの報道番組には容姿が良いタレントしかいないし、有識者として呼ばれるのはだいたい男性の専門家。お天気お姉さんは若い女性で、解説を交えた情報を伝える気象予報士は男性。長寿番組の男性司会は何十年も変わらないのに、横にいる女性アナウンサーは定期的に交代する。どの番組を観ても、メインは男性タレントで、アシスタントは女性というスタイルが固定されている。女性タレントがメインのゴールデン番組はいくつあるだろう?週刊誌は全体の1割にも満たない女性国会議員を追っかけ、世論を煽るような記事を書く。9割以上の男性議員が公費を私的に使おうが、不倫をしようが、世間は男性の不祥事に見慣れていて食いつかない。

問題は昔のように真正面に構えていないだけで、男性の横に女性が添えられている景色や女性は男性より劣っていると思わせる報道、女性はこうあるべきと思わせるフィクションはいまだにスタンダートとして社会に存在している。私が日本にいるころはこのスタンダードは問題視すらされていなかったので、女としての個人的体験も手伝い、私は世の中の女の扱い方に対する強烈な嫌悪感と悔しさでいっぱいの日々を過ごしていた。虐待によるPTSDも今よりずっと酷かったので、より精神的に敏感になっていたことも手伝い、眠らない思考が屍になった体をずっと引きずっているような感覚だった。環境は人を殺せるのだと改めて思う。そのくらいセクシズムは私の中で大きな存在で、人生の一部だった。

嫌なら目を背けることもできる。それも自分の人生を豊かにする選択だと思う。私も数年間はそうやって過ごした。転機が訪れたのは、数年前にみたインスタ漫画だった。そのアカウントは読者の日常体験を漫画にするといった、ごくありふれた内容で、私は画風が好きでなんとなくフォローしていた。ある日、お酒を飲み過ぎた女性が誘拐事件に巻き込まれそうになった体験談の漫画が投稿された。私はハラハラしながら読んでいたのだが、そのポストのコメント欄には「危ない目に遭うのは自業自得」といった内容が多く目についた。私はポストを見るためだけにアカウントを作ったので、以前、同じアカウントで下着泥棒の被害に遭った体験談がポストされたときにも、「一階に住んでいるのに下着を干す方が悪い」という声が多く、まだ性犯罪をこんな風に捉えるひとがいるのかと呆れた。そのときはインスタを使い始めたばかりだったし、これがたまたま民度の悪い人が集まってしまったポストだったかもしれない、と他にも思うことは沢山あれど、コメントは残さなかった。しかし、性犯罪に対して「自業自得」とは何事か。くだらない思考ほど有害だと思った。ここで釘を刺さなければ人間ではない、と私は反射的に反論の長文コメントを残した。それまで女性を擁護するようなコメントは見なかったので、「こんなことを言ったら、あのとんでもない考え方の持ち主たちと喧嘩をするのだろうな」とうっすら思いつつ、アプリを閉じた。寝る前にまたアプリを開くと、かなりの通知がきていることに気づいた。罵倒コメントで燃え上がっているんだろうと思いつつ確認すると、私のコメントには数百のいいねがついていた。そのアカウントのフォロワーは既に何万人といたが、これほど私の発言をポジティブに捉えるひとがいるのかと驚いた。自分の価値観と日本社会は一生相容れないものと思い込んでいたが、まだまだ捨てたもんじゃないと思った。何を考えても、何をやっても無駄だと思っていた自分の気持ちが変わった瞬間だった。

私はずっと両親に求められることに応える形で生きてきたので、自分が何をしたいか、なんて考えたこともなかった。自分自身の価値は常に誰かに決められていて、誰かに認められたり褒められることしか生きがいがなかった。社会人になってからしばらくは、お金を稼いで自由に使えることが嬉しくて、将来何をやりたいかを真面目に考えることもなかった。しかし、そんな平凡な生活に慣れてからある程度時間が経つと、自分はお金を稼ぐことにそれほど熱心になれないと気づき始めた。稼いだところで、ある程度の年収以上になれば手取りはそれほど変わらないし、本当に熱中できる仕事は、誰かに仕えてビジネスやお金儲けに関係することではないと学んだ。

インスタ事件は一瞬の出来事だったが、私に失われた数年分の活力を与えてくれた。私は10代のほとんどを、女性に生まれたことを後悔しながら生きていた。こんな風に考えているのは自分くらいだろうと思っていたが、徐々に女性たちの声が日の目を見るようになってからは、私のように生まれもった性別にすら嫌悪感を抱く女性は少なくないと分かった。それほど性別における社会構造は偏っていて、その文化や風潮を避けることはもはや不可能だ。自分の後悔を撤回することはできないし、時間を巻き戻せるなら、そんなことを考えずに10代を過ごしたかったと思う。いまを生きる女性の誰一人、あんな思いをしてほしくない、となんとなく、でも常に心のどこかで考えていた。私がずっとやりたかったことは、女性たちのために社会を良くすることではないか。女性として生まれたことを後悔する社会なんかではなく、誇れるような世の中にすることだ。

その一歩として、私は書くことを選んだ。生まれながら秀でた才能はひとつもない上に、趣味や仕事、何事も長く続かない性分だけど、女性の権利は私の中で、ずっと消えない炎のような存在だ。どんなに雨が降ろうと、風が強くても、必ずそこにある。私がもし億万長者になろうが、幸せな結婚をしようが、私の人生でフェミニズムについて考えない時間ははないと思う。うまくいかない世の中だけど、何があっても声を上げ続けよう。そう教えてくれたのも、戦い続けるフェミニズムだった。

雄弁は銀、沈黙は金というが、女性たちを黙らせるシルバーブレットはないと信じている。


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