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トランスジェンダーというカルト⑧ ジェンダークリニック

英国には国営の医療制度National Health Service(NHS)がある。移住した人はもちろん、学生やワーホリとして現地に住む長期滞在者もその対象で、医者にかかりたければ、自分の住む地区に登録済みの診療所General Practice(GP)に予約を入れなければいけない。どんな問題だろうが、最初に診療所のGeneral Practitioner(一般内科医)に診てもらう必要がある。GPで解決しなければ、そこからようやく専門機関や専門医に紹介状されるが、NHSには専門外来、精密検査、外科手術、どの分野にも待機リストがある。性別違和の場合、ジェンダーを専門とするところで診てもらう必要があるが、NHSでは常に2、3年待ちだという。そこで今繁盛しているのが、全て自費負担となるプライベートのジェンダークリニック(GC)だ。

元夫はカムアウト後、すぐに地元のGPに連絡を入れた。そこでNHSの待機リストがどれほど長いかを知ったらしい。「プライベートだとお金がかかることは分かっている。でも、今すぐ自分の性別と名前を変えなければ死んでしまう。」と言って、ネットで見つけたプライベートのGCに予約を入れた。私は以前、医療保険を介して一度だけプライベートの専門医にかかったことがあり、そこでとんでもない額の金がかかることを知った。血液検査は400ポンド、医者と5分話したら200ポンド、数秒でも器具を使って調べたら検査代として300ポンド、すさまじい金額だった。こちらではNHSが役立たずなことは周知の事実なので、福利厚生の一部として医療保険を提供している企業が多く、大手だと毎月の保険料を会社が負担してくれるところもある。私はそのケースだったが、それでも別途手数料の100ポンドを保険会社に支払わなければいけなかった。100ポンドは安い方で、保険のタイプやその値段によっては手数料が250ポンドになる。プライベートだともちろん、診察や検査にかかったお金とは別に薬代もすべて自費負担だ。

私はその経験から、元夫に「絶対に1000ポンド以上はかかる」と忠告し、そのお金はどこから工面するのか聞いた。案の定、彼は「ウェブサイトをみたけど、そんなにかかるわけない。かかっても500ポンドくらいだ。」とろくに耳を貸さなかった。元夫は昔から物事の下調べと予想が甘く、その適当さに私はいつも腹を立てていた。例えば、婚約旅行のために予約した高級ホテルでは、部屋のベランダでプロポーズする予定を立てていたのに、ベランダがない部屋だったどころかホテルの外装のほとんどが改装工事中で、窓からまともに景色を見ることすらできなかったし、ホテルに到着してから朝食がプランに含まれていないことが判明するなど散々だった。彼はいつも目先のことしか考えられず、こうしなければと思うと後先考えずに行動する。私の移住から数年経ち、これから二人の生活の基盤をつくっていこうとした矢先にこんなことになって、しかも数千ポンドが一気に吹き飛ぶような話を今この男はしている。数週間前には持ち家を買う話をしていたのに、本当に芯から嘘つきだと思った。

しかし、私には反対する選択さえ残されていなかった。ジェンダークリニックにかかれなければ死ぬと言われて、止められる人はいるのだろうか?ここまでくると諦め、いや呆れの方が大きかった。別に私の財布から出すわけでもないし、いっそ医者に精神鑑定してもらって彼が主張する根拠のない性別違和を否定されればいいとすら思った。そうすれば以前のように戻るかもしれない。うっすらそんな期待をしていた。

今振り返ると、私はジェンダー治療のことについて全くの無知だった。これは私が移民として個人的に感じたことだが、こちらの医療は内輪内で庇いあう傾向にある。誤診や書類上のミス、不適切な医療行為があっても、前にあなたを診た人はきっとこうだったんだと思うと言うだけで、その原因を深く追求しない。対して日本には基本的に医者や病院を選べる制度があることに加えて、ルールを守り、同国人に対して厳しい国民性も手伝って、業界人同士で「このやり方は間違っている」と言い合える環境があると私は思っている。そんなルールに則った医療で育った私は、町医者のGPレベルでは埒が明かない問題も、スペシャリストまで行けば少しは根拠に基づいた見解を聞けるだろうとどこかで思っていた。

私はジェンダークリニックの存在すら知らなかったので、グーグルマップで調べてみた。ロンドンを中心に、複数のプライベートのジェンダークリニックが存在しているようで、そのレビューもなんとなく見てみた。ジェンダークリニックに限らず、プライベートのクリニックや歯医者は口コミがすべてということもあり、何らかの理由をつけて良くないレビューは削除されていることは知っていたので、ほとんどのクリニックがまずまずの評価だった。やはり操作済みかと思っていると評価が低いところを見つけ、気になってレビューの内容を確認してみた。「待機リスト上の待ち時間が異常に長い」や「職員が失礼だった」など、よくある意見もあったが、私が気になったのは「長年性別違和があるのに、女の格好をしてないというだけで性同一性障害の診断が下りなかった」や「性同一性障害ではないと誤診された」という人が少なくなかったことだ。

性同一性障害と診断されなかったことは、悪いことなのだろうか?現実の性別と自分が望む性別が一致していないと思うから受診するのであって、一致していると診断されたのであれば、それはむしろ良いことではないか?性別違和の状態で体とは違う方の性別のホルモン剤を投与したら、パズルのピースが揃ったように晴々とするものなのか?ずっと体調が悪くて何度も病院に行ったのに原因が分からない、治療ができない状態とは訳が違う。彼らにはすでに欲しい答えがあり、それを与えられなかったことに腹を立てているのだ。なんだか恐ろしくなり、私はそれ以上調べるのをやめた。

元夫はジェンダークリニックについて相当調べていた。どこで調べたのか、病院代や治療費を最小に抑えるためにGPとプライベートクリニックが患者のために提携する同意の手続きを自ら進めていた。それがあれば血液検査や薬の処方などGPで出来ることはNHS内で済ませられるので、保険適用外で多額を支払う必要がない。ここまで調べておいて、他の患者の「性同一性障害の診断が下りなかった」体験談を読んでいないはずがない。

ロックダウンの真っ只中で病院はコロナ患者で埋め尽くされ、歯医者を含むその他のすべての医療がストップした。持病のためのルーティン診察や心理カウンセリングは、すべて電話やオンラインに切り替わった。ジェンダークリニックも例外ではなく、元夫の初診はビデオ電話によって行われた。私は失業中で一日中家にいたので、彼の部屋から医者と話している声が聞こえた。どうりでその日は外出の予定もないのに土曜日にも関わらず、朝から服を着替えてメイクをしていたわけだ。

私は彼が医者の前で女装をすることで、意図的に性同一性障害の診断を下りやすくしたと考えている。性同一性障害として診断されるためには、医者による複数回の診察や血液検査が必要なので、少なくとも数ヶ月はかかる。正式に診断が下りてからすぐに、彼は「女として自信がついた」とメイクやスカートを履くことをやめた。メイクをやめた経緯は知らないが、まだ一緒に暮らしていたときから推測するに、朝早く起きることが面倒になったのだろう。スカートは寒いからやめたらしい。生まれてからずっとやりたかったことを数ヶ月の短期間でやめられるなんて、随分と諦めが良い性格だと思う。

なぜ性別違和を訴える人々が医師からの診断を切望するのか。実はイギリスでは規則上、医師の診断なしでも公的書類上の性別を変えることができる。政府のガイダンスによると、性別変更の条件には医師からの診断書以外で「2年以上自認の性別で生活していること」と「自認する性別で生涯生活する意志があること」がある。ただ、性別変更を申請した際には公的機関によって審査されなければいけない。状況証拠のみの申請だと却下される場合があるため、確実に通したいのなら診断書しかないということになる。

私が元夫の用意周到さに気付いたのは、しばらくしてだった。彼が躁鬱の躁状態なみに行動している裏で、私を気にかけたことは一度もなかった。当時、私は自分がいかに孤独で取り残されているかを理解していなかった。いや、現実があまりにも非現実的に変化しすぎて、思考が追いついていなかったのだと思う。子供の頃に虐待を経験しているからか、大抵のことは子供の頃と比べたらマシだと思ってしまうのだろう。最悪を経験していると、あの時よりは耐えられると無意識に耐えてしまう。まだ大丈夫、まだ最悪ではないと。

中でも私が一番非現実的で驚いたのは、性別変更だった。

(次の記事に続く)

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