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ノンケへの恋は修羅の道

いきなりですが、皆さんは友達を好きになったことはありますか?
それも異性ではなく、同性です。

同性愛者から見て、その気が無い人のことをノンケと言います。

今日は、同性のノンケに恋をしてしまうということが、
いかに絶望的で、辛いことなのかをお話したいと思います。

ノンケに恋をするということ

まず初めに、ノンケに恋をしたら、十中八九、いや、それ以上でしょうか、
成就する可能性はかなり低いでしょう。

竹槍でB29を落とせるでしょうか?
無理ですよね。無謀。
それと同じなんです。

でも全く希望がないか、と言われれば、
そうではありません。

今からお伝えする1つの可能性に賭けること。
それが私たちに残された一縷の望みなんです!!

けど覚悟が必要ですよ。
あなたが進もうとしているのは修羅の道なのですから。

ノンケは同性愛に目覚めるか

たった一つの可能性…なんだと思いますか。

それは、相手が同性愛に目覚めることッ!!!

ここでノンケの皆さんはこう思うんじゃないですか??
「俺は女が好きだからそんなの絶対あり得ない!」

しかし、本当にそうでしょうか。

そもそもあなたは、そこまで自分のSOGI(性的指向や性自認のこと)をはっきりと自覚できていますか?

つまり それは  そんな  シンプルじゃない
もっと 曖昧で 繊細で 不明瞭なナニカ 

Habit  - SEKAI NO OWARI-

去年(2022)のレコード大賞にもなりました、Habitの歌詞です。
この曲では、人間は世間一般で使われているようなちんけな物差しで測れるほど、単純ではないということが謳われています。

そしてこの歌詞を読むと、このような考え方に至るのではないでしょうか。

同性愛者、異性愛者で人間を二分すること自体、お門違いであると。(ここでは便宜上これらの言葉を使わせて頂きますが。)

そして実は、その気(ここでは同性愛の”ケ”)については、同性を好きか否かの0or 100ではなく、0 to 100 というような、グラデーションになっていることが分かっています。しかもその性質は固定的ではなく、後天的に変動する可能性がいくらでもあるのです。

つまり、ノンケだと思っている同性に恋をしたとしても、その人が同性を好きになる性質を既に保持している、もしくは今後獲得する、という可能性がまだ残っているのです。

相手依存であることの苦しさ

同性愛者がノンケに恋をした場合、成就するには相手が同性愛に目覚める可能性に賭けるしかない。
そういったことをこれまでお話ししてきました。

「その可能性が少しでもあるんだったら全然悲観する必要なくない!?」

そんな風に思われる方もいらっしゃるかもしれません。
いやいや。実は全くそんなことはないのです。

というのも、相手が同性愛に目覚めるかどうか、
そればかりは自分ではどうしようもないからです。

異性愛では清潔感を整えたり、内面を磨いたりなどという好かれるための努力をすることで、自分次第でゴールに近づくことが可能です。
しかし同性愛の場合、出来ることと言ったら、ただ相手が同性愛に目覚めるのを待つことのみ。完全に相手依存なのです。

しかも、タチが悪いのは、ノンケへの恋には少なからず希望があるということ。可能性が0だったらそんなのすぐに諦めますよね。0じゃないからこそ、やめられないし、期待しちゃうんです。

最後に

僕はゲイの大学生です。
最近バイト先の同性の友達にガチ恋してしまいました。

そして今、僕はその子にその気が少しでもあることを期待しながら、夢見ながら、それを希望に日々を生きています。

「無理だろうな…。」頭じゃわかっています。
でもやっぱりその可能性に賭けている自分がいるんです。
完全に修羅の道を突き進んでるなと、そう思います。

でもそれも案外悪くないかも。
最近そう思い始めました。

冒頭で、ノンケへの恋は可能性は限りなく低いと言いましたが、人間って可能性が低いことにすがりたい生きものなんですよ。パチンコとか株とかだってそうじゃないですか。

可能性が低い、そして未知だからこそ、魅力を感じる。
そういった修羅の道を楽しんでいる自分がいることに気が付いた今日この頃です。

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