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一萬一秒物語🌟🌛#1

屋上の扉を開けて一瞬、目の前をマルーンカラーの車体が通り過ぎていく。
――阪急電車だ。
小豆色とも、チョコレート色ともいう。上質な赤ワインのような色にも見える。
風が立ち、車輪の音が遠ざかっていく。
顔にかかった髪をかき上げた時には、電車はもうほとんど見えなくなっていた。

ここはゲストハウス萬家―〈マヤ〉と読む―の屋上。そう、うちの宿には屋上がある。
秋は半ば。早いもので、萬家で働き始めて四度目の秋になる。
どこからともなく金木犀の香りが漂い、鱗雲がたなびく水色の空。

阪急神戸線・王子公園駅を出発した電車は、途中、萬家の前を通り過ぎて隣の春日野道駅へと向かい、それから神戸三宮駅に到着する。
この三駅間、約3kmの距離は高架鉄道で結ばれており、屋上に立てば目線の高さで電車が通り過ぎていくのを見ることができるのだ。
高架の向こうには王子動物園のメルヘンチックな観覧車が見える。さらにその向こう側に広がるのは摩耶山。
この二つに、萬家の建物を足すと、萬家のロゴマークが出来上がる。

――背後で扉の開く音がした。
と、同時に目の前をまた、次の電車が通り過ぎていく。今度は反対方向から大阪方面へ向かって。
「おーい!」
私の隣に立ち、電車に向かって手を大きく振る人がいる。ゲストハウス萬家の主だ。
「またですか、パクさん」
「こうしてると時々手を振り返してくれる人がいるんだよ」
「それ昔から言ってるけど、ほんとですか?」
手を振り続けるパクさんに恥ずかしげな様子は全くない。
何もしていない私の方が気恥ずかしくなって、
「ちょっと寒くなってきたんで、そろそろ戻りますね……あ」
その時、ほんの一瞬だが、電車の扉の窓際に立つ乗客と目が合った気がした。
その顔には微かに笑顔が見えたような――。
結局、電車が見えなくなるまでパクさんは手を振り続けていた。

〈続く〉

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