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鎧を脱ぎたい

というとなにが浮かぶだろうか
戦国武将とか、要塞、甲冑?
目に見えない「殻」とか

だれでもなにか、そんなものがある
多分・・・・


目には見えなくても、自分を守るためなにかしら装備しているものだろう
例えば頭脳、例えば容姿、身体能力、お洒落、特技、etc…そんなものも時には武装のひとつと成り得る

なにも身につけていないのは、赤ちゃんくらい?
いや、赤ちゃんにこそ生きるための鎧があるのかもしれない。お腹が空いたら泣く、眠くなったら泣く、機嫌が悪くても泣く、とかね。言葉を知らない彼らの精一杯の自己防衛、最強の鎧は笑顔。生命力そのものが最大の武器かもしれない

どんな些細なことでも、なにかしら守るものはある。体だったり、ココロだったり、立場だったり、名誉だったり…成長につれ、その鎧は大きくなったり小さくなったり、厚くなったり薄くなったり変化を伴うのだろう

そんな鎧が脱げたら、さぞかし軽くて楽だろうな

わたしは今「長女」の鎧を脱ぎたい

そうはいっても限界がある。突然次女になれるわけでもないし、おいそれと立ち位置が変わるわけでもない。ただ、軽装にすることは出来るかもしれないということ

これも「順番」があるんじゃないかと思う

わたしの人生は今『ボーナスステージ』にある

だから今までのように、周りや身内のことを灯台のようにぐるりと見渡して、全部を把握していなくてもよくなった。そこはそれぞれ適材適所、餅は餅屋でやればいい
なのに、50年の蓄積が、毎朝起きて顔を洗うような当たり前の習慣のように、わたしは未だ周りのことを把握していなければ、、、、、と思っているようだ。これは癖か?
もう他はどうでもいいのに、もうわたしが出張っていかなくても、それぞれちゃんと稼働しているのに、わたしだけがまだ頑張ろうとしている。そんな自分が滑稽というか、哀れに思えてならないのだ

気にしていたから気になるのか、ただ気にかかるだけなのか、ただ気にかかるにしても余計なお世話なのだと思うし、知れば知るだけ自分の気持ちがざわつくだけだ
いちばんはそこを取り除くための「ボーナスステージ」のはずなのに、未だ振り返ってしまうのは未練なのか、しがらみなのか、ただの野次馬根性か。野次馬ならこれはもう救いようのない下衆な塊、まだまだ修行が足りんらしい

少しずつだが改善はしている、と思う
「これがダメなんだ」「そこが余計なんだ」と考え直して立ち止まる。あるいは元の場所からやり直してみることもある。そうやってゆるやかに、穏やかな方向に向かいつつ、自分の思うことをスムーズにできるようにしていきたい。山の中でひとり、自給自足するようなそんな心持ちで周りを見ることが出来たなら・・・・

あとは日々に感謝して、
関わるひとたちに感謝して、
今在るすべてに感謝して、

ありがとうとごめんなさいを忘れず過ごしたいと思う


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