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子育てで拘ったこと:息子に惑う

母親として「わかってもらえない」のが息子であり、
息子として「わかってもらえない」のは母親であり、
男だらから、女だから、ではなく、やっぱりそこは人間同士の付き合いなわけで、子育てだとか成長だとか、そういう理屈じゃないのかなと思う
そこには幼い頃の息子ぼくというよりは、もしかしたら「急いでオトナにならなくていいよ」的な気持ちもあるのかな…と

いつまでもどこまでも、子どもは結局自分の子ども、、、なのだけれど、成長はもちろん楽しみだし誇らしい。だけれどときどきイラっとする(。-`ω-){それが息子

母親はですから、娘に対しては女としての「できて当たり前」が発動します。よって娘には当たりが強いことが多々ありますが、こと息子になりますと、男の子に対する「知らない」が娘よりも若干の「甘やかし」を醸し出てしまうのも無理がないことなのかもしれません

更に息子には、娘と違って、将来自分の家庭を持ったら余計な口出しはできないのだろうとも思うので、だからこそ今のうちにぐちゃぐちゃ言いたい…となってしまうのも仕方のないことにしたいのです。でも決して、差別ではないのです。どちらもたくましくあって欲しいと思いますし、やさしくあって欲しいとも思うのです。いつまでもどこまでも、ただただ穏やかに過ごしてくれたらいいと、子どものしあわせを願うことに変わりはないのです

が、

きれいごとと実践はまったく違うのです

我が家はおそらく、門限やら友人とのつきあいやらに対する約束事が、他のお宅に比べて若干厳しかったかもしれません。そこにはやはり「女の子」がいる家庭なので、その辺りを踏まえて過剰に過ごしてきたきらいがあります
高校まではふたりとも同じ門限で、外泊も許してはいませんでした。でも男兄弟だけのお友だちのお宅はそこまで厳しくはなかったらしく、息子にはだいぶ反発されましたし、こちらもぐずぐず言われました。でも我が家には「女の子」がいて、やはりどちらのお友だちも家に泊めることに戸惑いがあったのです。なぜなら、息子の友人が遊びに来たときにおもしろがって娘の不在時に彼女の部屋を覗くようなことがあったりしたので、過敏になるのも致し方ありません。たとえ幼少期のいたずらだろうとも、それを息子が止めたとしても、友人の好奇心や興味を止められるものでもないので、ならば「家には入れられない」となります

ただ逆に、それが良い方向に働くこともありました。娘に厳しく門限を言い渡しておりましたので、どこの家庭も「女の子」の扱いは同様に…とのすり込みに成功したようです。年頃になり異性とお付き合いをした際、しっかり我が家と同じ門限で彼女を送り届けておりましたし、泊まり込むようなこともありませんでした。仮に時間が過ぎてしまった場合は、相手の親御さんに遅くなってしまった旨を伝え謝罪する程度の常識は学んだようです

男の子というのは時に、こちらに「バレている」嘘を頑なに押し通そうとするところがありますね。見え透いているにもかかわらず、さもそれが「真実だ!」と言わんばかりの言い訳をします。これはある種の「さが」なのでしょうか?(大人旦那になっても変わらない?)
自分が若い頃につき合っていた男の子のことを考えてみても思い当たるふしがあるので、そうかな~という想像に過ぎませんが、思春期の頃にはそれでだいぶ悩まされたので備忘録的な意味で記します

男の子の思春期にありがちなのは「逆ギレ」。だいたいなにかもめたあとに「もういい!」だとか「しらねー」と言って退散していく。でもこれは、仕方のないことなのだとのちに知る。なぜなら相手は子どもですから、大人、しかも口の達者な大人の女性母親に口で勝てるわけがないのです。言葉の数、ボキャブラリーが圧倒的に足りないのですね。だから面倒臭くなって「もういい」となるわけで、そんな時はなにを言っても聞く耳を持ちません
子どもとはいえ相手は「男」。なにげにプライドは並みの大人と同様にそびえたっているわけです。ですからプライドを傷つけるような言葉を発すれば「うるせぇ」「しらねぇ」「もういい」と退散していくことになるのです。とはいえひとりになれば、それなりに反省もするので、冷静になったあとから順を追って話してやればなんとかなるのです。もちろん、彼らの解る言葉を駆使しての家族会議です
まぁ、そうそううまくいくことばかりではないのですが、ね・・・・

自分にも身に覚えがあることなのですが、子どもは成長するにつれ、親と対等であろうと挑んでくることがあります。それは男も女も関係ありません。幼い頃には通じた頭ごなしがだんだんと通じなくなってくる。そもそも頭ごなしがイケないのでしょうけれど、わたしもまだまだ未熟なもので、辛抱が足りない。相手が大人であればあるほど、こちらも感情的になってしまう。いい大人とは言えませんね
子どもの頃はあんなにラブラブだったのに…なんて思っても、お互いにいつまでも幼いままではいられないのです

実は我が息子、わたしの子ですから、性格的に類似点があってもおかしくはない…のですが、多少ではなく、かな~りいや~なところばかりが似てしまっていて、扱いに難儀する。似ているから、好みは合う。でもぶつかればその反動もまた酷い
気持ちが解るからこそ「どう言えば理解してもらえるか」が解るはずなのに解らない。ここがいちばん落ち込むところ


子どもの頃、自分が親に理解されないことがあると、わたしは「絶対にこんな親にはならない!」な~んて生意気なことを思っていたけれど、実践できていない。実践できていないから、自分の両親に対しては「申し訳ない」と感謝もありますが、それが我が子だと更に「申し訳ない」と反省しきり。うまくやろうと思ってできないのはやっぱり悔しいものです
「生意気言って」ごめんなさい。反発させるほど「うまく対処できなくて」ごめんなさい。・・・・なのだ

わたしもまだまだ成長過程なわけです


今どきの子どもたちは優しいですよね。わたしが子どもの頃は、親と出掛けるのって、考えられなかった。旅行ならともかく、買い物だったりちょっとしたお出かけも毛嫌いしてませんでした? わたしだけかな?
でも今は「友だち親子」なんて言葉があるくらい、親子でお出かけする姿をよく見かけます。この「友だち」っていうところはどうかな~とちょっと昭和的脳がもやもやするわたしですが、それでもちょっとした買い物に付き合ってくれたりする子どもたちの気持ちがとてもうれしい。これも時代なのでしょうね

気を遣わせるかな~と心配していたら、やっぱり気を遣わせたみたい ↓ ↓ ↓
娘からのカーネーションをあげたわたしのインスタを見て、息子からメッセージ・・・・

ちゃんと🎁してくれてるのにね

母の日「おめでとう」っていうところが、彼らしくてありがたい。そう、わたしはあなたたちが生まれたときに、母親として誕生したのだから、あなたたちと同じ年だけのお母さん年齢。毎年この日は、本当にこころから「お母さんになれてよかった」と思う。「おかあさん」にしてくれてありがとう







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