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俯瞰の極み

人生を肯定文で生きていくこと

座右の銘・たゆ

このところ、やたらと「俯瞰」の文字がちらついて、意味を調べた
だって普段そんなに使わない言葉だったから

繰り返し出てくる言葉は、意味も使い方も理解していて自然に出てくる。なんだったら「皮肉」や「シャレ」にだってできてしまうくらいには使いこなせる。けれど、馴染みのない言葉は、うまいこと咀嚼できないばかりか使いどころが解らない

自分の言葉で話すって、そういうことなんだ
自分が理解できていなければ、言葉になって口から出ることもない。相手に伝えることも難しいし、説明もできない

そこでわたしが思ったのは冒頭の言葉だった

20歳のころになると、なぜか周りは宗教関連の話と並行してネットワークビジネスの類が横行し、よほど楽して稼ぎたいのかあやしい誘いがたくさんあった(当時は印鑑が必要だったから、生まれの遅いわたしは未成年という強みでいろいろとすり抜けられたことを覚えている)
やる、やらない、は別として、ひと通り知っておいた方がいいというのがわたしの持論で、まぁ興味本位でそれらしい集まりにちょいちょい顔を出したことがあった。結果、なんだか異様な熱気と「言ってはいけない」何かを感じた。まぁその「言ってはいけない」ことって言うのはだいたいがマイナスな言葉だったり表現その他になるわけだけれど、そんなわけだから、とにかくポジティブなひとの集まりだという印象が強く残った

そんな集まりの中で、みんな若いひとだけどたとえ話の中によく「子育て」を例に挙げることが多く、子どもに対して「肯定文」で育てると英才教育に似た現象が起こるという事例があった
それは「成功体験」のイメージトレーニングの話だったのだが、子どもは「やってはいけない」ことや「失敗」に対してとても機微であり、頭の中で想像したそれらを実際にやってしまうということだった
子どもは好奇心の塊だ。だから目につくものはなんでもやりたがる。包丁を持ちたがったり、配膳の手伝いなんかもそうだが、大人に「こぼさないで」と言われると、こぼして怒られるイメージが湧くからちゃんとこぼすのだそうだ。逆に「上手に運んでね」というと、うまく運んで褒められる自分を想像するから失敗しない。わたしはこのことがずっと気になっていて、自分の子どもに試したことがある。結果は言わずもがな、その通りのことが起きたのだ(我が子が単純なだけかもしれないが)
そこでわたしは、自分の子どもには「肯定文」で話し掛けることを心掛けたわけだが、わたしは先生でもなければ忍耐強いわけでもないので、そうそう感情をコントロールできるわけではなかった。とはいえ、極力肯定文で話せるよう、だいぶ頭を使って会話をしていたことを覚えている。子どもが生意気になってくるとそうもいかないけれど・・・・

でもこれって、子どもだけに限らず、大人になってからもそこかしこで使えることに気付いた。例えば相談を受けた時、落ち込んだ相手に使う言葉はとても気を使うものだが、それを全部肯定文で返すと、不思議と気を使わなくてもやんわりとことが進むのだ
わたしの周りにはメンヘラちゃんや自己肯定感の低いひと、悲観的なひとが多く、そんなときにも役に立つ。下手な慰めや励ましの言葉を並べなくても「肯定文」での会話を意識するだけで、随分と話しやすくなる。これ、苦手な相手にも使えるし、こちらは頭を使って話をするので冷静さも保てるのだ

そしてこれは、もちろん自分にも当てはめることができるわけで、マイナスなことを考えてしまうときや失敗して落ち込んだ時なんか、いやそれはこうだろう…と切り替えることができる。ある意味それは「自分に都合よく」解釈しているようにとられるかもしれない。が、この際、気持ちが上向きになるのであれば都合よくても全然いい。むしろ落ち込んでだらだらするという無駄な時間が減る。まぁ肯定文だけでモチベーションが上がれば世話はないと思うし、その程度のことなら別に大したことはないのだ。本気のどん底の時は肯定文なんか浮かびはしない。だが、その程度で気持ちが上がるなら試してみる価値はあると思う

そこで冒頭に戻るのだが、人間ある程度年齢が行くと、できることも限られてくるし、できないことの方が増えてくる。それでも毎日は若い頃のように同じようにやってくるのであれば、そりゃぁ面白楽しくやり過ごしたいと思う。だから、つまらないことでつまづいたり、はたから見たらどうでもいいようなことにエネルギーを使うより、時短で笑顔だけをふんだんに使って生きていきたいと思うのだ

いろいろと考える節目だったりするわけですよ
なんか中途半端なところにいるなぁっていう感覚

むかしは今の自分の年齢って、ものすごいおばあちゃんに感じたものです。子どもの頃はそういうものだと思っていたし、そうなるものと受け入れていたけれど、実際その年になってみたら「え、まだそこまでじゃなくね?」って思うわけ。あの当時の自分の祖父母を考えたら申し訳ないくらいに、わたしたちそこまで老人じゃない
逆にあの当時の祖父母が今のわたしと同じような気持ちでいたのなら、むしろ「ごめんなさい」と思うけれど、服装その他を考えるとやっぱりちょっと違うんじゃないかとも感じる。自分の両親にしても、自分と同じ年齢の頃は、そこまで「年寄り」とは感じなかった。まだまだいろいろやってもらいたいこともあったし、全然普通に仕事もしてれば旅行だって行けたじゃんって、なんだかもったいなさを感じた
そして、相手が祖父母や両親で、自分より目上の人だからかもしれないけれど、同じ土俵に立っているとしてもまだまだわたしはペーペーなのだと思う。これは甘えかな?

まぁそんな感じで最近は、この先のいろいろを考えるようになった…という話

お付き合いいただきありがとうございました




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