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連載『あの頃を思い出す』

   1. 『ま』の悪い恋人たち・・・3


 ふいに、見慣れたカーキ色のリュックが上下しながら素通りしていく。時間は不規則だが、必ずといっていいほど毎日姿を見せる青年〈瀬谷圭士(せやけいし)〉だ。彼は隣の公園内にあるスポーツジムでスウィミングスクールのインストラクターをしている。近くなにかの資格を取ろうとでもしているのか、閉館までの時間を熱心に勉強に費やしているのだ。
 館内奥の大きな机の並ぶほうにまっすぐと向かっていく。そんな彼を席につくところまで目で追う尚季(ひさき)。気づいているのに見向きもしない彼を数秒凝視した後、なにごともなかったかのようにしてまた、雑誌に目を落とした。
 習慣になってしまっているのだろうか。ついそうしてしまう自分をたしなめる。
 当の瀬谷のほうは、別にそれを当たり前と無視しているのではなく、単にテレの現れでその視線を心地よく受け止めているのであった。

 2ヶ月ほど前から、閉館後の尚季をアパートまで送るようになった瀬谷。尚季にとってそれは偶然からだったが、瀬谷本人にしてみれば必然とも言えた。まだ特別な関係とまでは言えないふたりだったが、お互い気になっているのは事実。しかし子持ちの尚季にはそれ以上の感情が、まるで悪いことのようにも思え、また、瀬谷が年下だということもためらわれる要因のひとつであった。その証拠に、1年前、想いを告げられてからアパートを教えるまでに半年の時間が掛けられていた。それまではもっぱら公園内の人気の少ないベンチでのわずかな会話のみで、たとえ瀬谷が「送る」と進言したとしても、公園入口で左右に分かれ、極力子どもたちとの接触を避け、瀬谷が諦めるのを待った。それが尚季にとっての精一杯の抵抗だったのだ。
しかし、瀬谷は諦めるどころか毎日のように図書館に通い詰め、そうまでされる尚季はほだされ、今日に至っている。そして今、尚季は次へのステップを求められ、だが心を決め兼ねている。瀬谷に対し、素直に想いを委ねて良いものなのかと…。

 午後6時、尚季の勤務は終了する。この図書館は私設ということもあって時間に融通が利く。会館時間は午前7時から午後10時までと幅広くとられているが、子持ちの尚季には開館から午後4時までと、午前9時から午後6時というありがたい勤務時間が当てられていた。
 従業員は全部で6人。その他アルバイトを含めると10人になるが、決して多くはない。尚季とありさの他は、館長夫妻と管理職の年配の男性で、この3人は殆ど館内に顔を出さず、もうひとりは今産休で休んでいる。よって、大抵は尚季かありさがカウンターに入り、後の仕事はアルバイトの学生が交替で請け負うことになっていた。が、時々このアルバイトも当てにならなくなる。

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