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家庭内暴力装置

厳しめのタイトルだね。笑
語弊があるかも。キャッチーだけどね。

父が亡くなってしばらくした頃、私が小学3.4年生になる頃から、4つ上(学年は3つ)の兄が家で暴れるようになってしまった。母に手をあげたり、家具を破壊したり。原因は色々あるのだろう。父親がいない環境で、欲しい時にもらえなかった愛情に対して恨みをもっていたのかもしれない。きっと彼なりのSOSだったのだろう。

兄は典型的な内弁慶で、学校では暴れるような事はしなかった。運動神経が良くて部活に没頭していたので、全国大会に出たりもしていた。救いになっていたのだと思う。

暴れ方も体が大きくなるに連れて派手になっていった。全盛期は私が小学5年生の頃だった気がする。帰ると毎日の様にあらゆる家具を薙ぎ倒している兄がいつもいて、兄が自室に引っ込んでいくと、まるでハリケーンが通り過ぎた後の様な光景がリビングに広がっていた。倒れた家具やら物を拾ったりするのが当たり前の状況にまでなった。当時の兄の担任の先生もよく一緒に片付けを手伝ってくれていた。良い先生だね。そして母はよくアザを作っていた。

兄が暴れ始めるのは決まってささいな事がキッカケだったりした。「アレコレがない、なんでこの家は物がなくなるんだ!」とかそういうどうでも良い事が始まりだった。

私は兄が暴れている時、怖くて部屋に閉じこもって耳を塞いでいた。扉の近くで壁に背をつけ体育座り。そして耳を塞いでいると、当時実家で飼っていた猫が身体を寄せてくる。あの頃の私を助けてくれたのは間違いなく猫だ。
全然関係ないけど、動物が好きだ。特に哺乳類。
話せない、わからないって気持ち、分かるわけないって気持ち。
それが分かりたい、伝えたいという原動力に繋がるから。「分かり合えた風」ね。良いんよな。
また脱線しちゃった。


結局のところ私は母を守る事が出来なかった。母は鬱病を発症した。後悔している。だけど父への想いのように真っ直ぐな気持ちではない。そしてそのせいで母から叱責される様にもなった。「お兄ちゃんは本当は優しい子なんや、せやけどあんたはお兄ちゃんが暴れてる時ちっとも助けてくれんかった」
私が22歳になり上京するまでよく言われた言葉だ。
大人になってから、「あの時俺だって怖くて部屋で震えとったんや。そんな俺のこと母さん知らんやんけ」と胸の内を吐き出すまで、かなりの時間が掛かった。俺だってよく殴られたんだぞと。

ある時兄が母を玄関のチェーンをかけて閉め出すという行動をとった時のことをよく思い出す。
叔父たちが玄関の外まで駆けつけて団地中に怒号が響き渡ってた。
ドアの隙間から開けんかいこのガキゃあ!と怒鳴り声が聞こえて。やがて兄ではなく私に対して言うのだ。おい、〇〇!お前が開けろ!!
兄は私に絶対に開けるなと強く言う。私は尋常ではない光景にどうして良いのか分からなかったけど、大人たちが何人も叫んでいて、ここで開けたら兄は1人ぼっちだと思った。だから扉を開けることができなかった。

結局叔父達がどこからかチェーンカッターを持ってきてチェーン切ったのだけれど、それがキッカケで母の鬱病は進行したと思う。チェーンと共に家族のナニカも切れてしまったのだろう。
母は叔父の家と我が家を行き来するようになった。

程なくして現状を変えるために母が取った行動は一軒家を買うということだったのだが、兄はさらに強く反発した。勝手に決めるなとよく叫んでいたと思う。1番広くて良い部屋をあてがわれてたのに、何が不満だったのだろうか。きっとそういう物差しではなかったのだと思う。

ドメスティックバイオレンスを行う兄のような子供は全国に沢山いると思う。
調べると兄は典型的な例に完全に当てはまっていた。あの時〇〇してくれなかった!と言って一体いつの話かと思い聞くと幼稚園の頃だとかそんな時の話をして母を責めるのだ。よくおぼえてるなと感心するよね。

新しい家も瞬く間にハリケーンがやってくるようになり、リビングの壁に穴があいた。それがまるで私たちを象徴するかのようで、未だに思い出す。

母は鬱病が酷くなり、とうとう家に住むことが難しくなった。鬱になって得意だった料理も出来なくなった。印象的だったのは、だし巻き卵だ。
あんなに綺麗に巻けていたのに、まるでボロボロの卵焼きしか作れなくなっていた。きっと私しか知らないがショックだったのをおぼえている。

母は叔父の家に住まわせてもらうことになり、私は小学5年だかで中学生の兄と2人暮らしになるという、これまた想像が難しいような生活が始まった。母は毎月3万円ずつ、計6万円の食費を置きにくるだけだった。私もこの頃になるとかなり荒んで、学校には殆ど行かなくなってしまった。友達は沢山いた。しかし周りの大人が自分を白い目で見ていることをわかっていた。学校に行っても普通の子供をやれている友達たちとは、きっと分かりあうことが出来ないと思っていた。深夜外に出て誰も居ない静かになった道路を独り占めして歩くのが好きだった。

今度書くが、自炊を始めたのもこの頃だ。
そんな生活がしばらくして小学6年に上がった。

実を言うと、この頃の記憶が思い出せない。きっとかなり辛かったのだと思う。不思議なことに、大人になってから兄とこの頃の話をした時(映画作りのため)、兄もこの頃の記憶が断片的にしかおぼえていなかった。兄も私も母も、皆が1番辛い時期だったのだと思う。

そんな生活をずっと続けていける訳もなく、いや、実際には続けていけたのだが、周りの大人が放っておくわけもなく、私は施設をたらい回しされるようになった。正しくはすぐに逃げ出すからその施設ではいられななったのだが、必ず逃げ出して自力で家に帰った。
最長距離で45キロはあっただろうか、今にして思うと凄まじい胆力だ。どこからでも帰れるくらい頭が良いんだなと我ながら感心する。
とにかく、人間にも帰巣本能があるのだと思う。この辺りも改めて書くかなと思う。

長いね今回💧

そんな兄を酷いと思うだろうか、可哀想と思うだろうか、私は兄だけを責める気にはなれなかった。多分だけど、私以外に当時の状況を分かち合える人間はいなかったと思うし、弟は兄ちゃんに憧れるものだ。
そう、たった1人の兄ちゃんなんだ。たった1人の母ちゃんなんだ。
ただ皆が仲良くいて欲しかった。それが辛かった。
母と兄に出来た溝は深く、兄も高校生になり少しずつ落ち着いていったにも関わらず、大人になってもその溝が埋まることはなかった。
何度も間を取り持とうとしたが、兄は社会人になって結婚して自分の子が生まれても、未だに母に孫を見せてすらいない。
母は大人になったらきっと分かる、子供ができたらわかると言っていたが、我が子が出来て余計に母が子育てをしてくれなかったと思ったのではないだろうか。

何をどうすれば良かったのだろうか、その答えはもうない。

私はこういった経験から、女子供には絶対に手を上げないと誓いを立てている。一般的に言うと当たり前なのだが、私は自分がそうなってしまってもなんらおかしく無い、そういう種類の人間だと思っているからだ。そういう攻撃的な感情に埋め尽くされたこともある。誓いを破ったことはないが、ニュースをつけた時にDVで捕まっている人を見て、自分も一歩間違えるとああなってもおかしく無いと言い聞かせて、自分のなかの悪魔とでも言うべきか、いつ自分が暴力装置と化すか怯えながら、必死になって暴力的な一面を端の方へと追いやるのだ。


うーーん、ちょっと長くなってしまった。
とっくに布団の中です。

良い夢みるぞー✨

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