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LGBTQへの理解・・・

 こんばんは、ノーマルです。

理解できない

 どういった意味で理解という言葉を使うかによって、できる・できないは変わります。どのような事柄なら理解できるか? どのような事柄なら理解できないか?

 そういう嗜好性が存在していることは理解できる。思考か、細胞か、脳神経の繋がりか、遺伝の構造か、何が作用しているのかはわかりませんが、本人が意図せずにその様になってしまって、マイノリティに属してしまう。例えば、女の子が好きだ、と気づく瞬間は、意識が働いているでしょう。しかし、その状態(女の子が好き)という状態は、意識が働くよりも前に定められているはずです。おそらく。意識よりも前に作用しているなら、それは思考の器である、肉体がそのような構造に作られたと捉えるのが自然です(私にとって)。つまり、LGBTQを自分自身が認知する以前に、体の構造はLGBTQを認知している。自分が認知したから体が変化したのではなく、体がその状態だから認知が働いたわけです(あくまで、おそらく、ですが)。

 とすると、生物として、LGBTQの嗜好を持つということは、偶発的な状態であるために、その存在は理解したほうが良いでしょう。ただし、存在を理解することと、自分自身が理解することは別です。つまり、生物として同性と付き合うことを嫌悪することは、生物の遺伝情報を残そうとする本能がそうさせるため、正常な反応だということです。

 思春期の女子が、父親を嫌悪し、拒絶することと同じですね。近親相姦は、流産の可能性や奇形の子供を産むリスクに繋がります。生物として、それを避けねばならないために、一番遺伝子情報が近い父親を嫌悪し、遠ざける必要があるのです。この反応は、生物として正しい反応です。遺伝的多様性が高い子孫の方が、生き残りやすい。北海道と沖縄出身の二人が子供を生むと賢い子が生まれやすいという迷信がありますが、それは遺伝が一番離れているから、一番多様性を持っているという意味で優れているという見方ができるからでしょう(実際は知りませんが)。

 ということで、同性同士の恋愛に対して、拒否感を持つことは、生物として非常に正しい反応であり、決して間違いではありません。ただし、LGBTQを否定してはいけないのです。自分自身の理解と、他人への理解は分けて考えるべきでしょう

 ここが言葉の難しいところですね。

 理解でも誰の視点からの理解かによって、全く意味が異なってしまいます。

社会制度としてどうすべきか?

 例えとしては非常に不適切ですが、前述のように、偶発的に体がそうなり、認知したと仮定しましょう。それは、本人ではどうすることができない問題です。本人が自分の意識で認知を変えることができたなら、おそらく問題になることはないでしょう。自分の意識で変えられない問題だからこそ、この問題は注意してかからなければならないのです。

 例えば、レズビアン。「今日から女の子を好きになるのやーめた」と切り替えられますか? おそらく難しいでしょう。認知のさらに奥から――人間の意識では変えることができないところで作用しているものを変えることは難しい。人間が、人間をやめることができないように、レズビアンはレズビアンをやめることができない(ここまで書いて、本当にそうなのか疑問が生じました。レズビアンからノーマルに戻った事例はないのでしょうか?)。個人の力ではどうすることもできないのです。

 そうした場合、社会制度として、LGBTQを認めて、その人達が住みやすくなるように制度を変えていく必要があります。LGBTQも、当たり前ですけど、人権を持つ人間なのですから。

 障害者(とここで書くと、誤解を生みそうですが)や、生活保護が、制度上守られるように、LGBTQの存在を社会的に認めて、その人達が制度上守られるようにすることは、社会として取り組むべき事柄です。
 働けない人が、生活保護を受け取っていたと仮定しましょう。もし、それを認めなかったら、働けなくなった時点で、その人は死ななければいけなくなるかもしれません(あくまで仮定の話)。それはあまりにも酷い話だと、一般的には感じるでしょう。働きたくても、働けない人は存在しているのです。働くということは、万人に訪れる可能性のある問題ですから、多くの人の認知が働きます。自分がその立場に立たされたとき、生活保護を受けられたほうが良いですからね。しかし、LGBTQの場合は、その立場になる確率が非常に限られているため、理解がされにくいのです。理解されにくかったとしても、生活保護の構造と重ね合わせて、どうしても変えられない嗜好と捉えたなら、制度を作り、人権を守る必要があることは理解できると思います


まとめ

・LGBTQに個人として生理的嫌悪感を抱くのは仕方ない部分がある。

・LGBTQは当事者の意識で変えられる嗜好ではないゆえに、社会として理解し、制度を作っていくことは必要。

 以上のようなことを、ふとニュースを見て思いました。
(正確に記すなら、「自分の娘がカミングアウトしたとき、嗜好を理解はできないが、本人の決断は理解する」だろうなと考えたところでのエッセイでした)

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