能登地震

親類がそこにいる。発生当初から、心配していたが、1週間もすぎると色々と思うところも出てきた。

1.遠くの親類より、近くの他人
2.報道のコンテンツ化

端的に言えば、上記2つだ。

結局、遠くにいる親類は何もすることはなく、心配するだけ時間の無駄だ。募金をしたら綺麗さっぱり忘れて、普段の生活をしたほうが良い。一応、クリエイターの端くれゆえに、その時感じたことをのちのち表現する可能性もあるため、私自身はそれを感じて100%無駄ではない。しかし、その場にいる人達が感じるものと、外から想像したり報道を見たりして感じるものでは、感度が違う。
心配したという事実や、心配で調べたという行動、募金したなどの事実は残るが、やっぱり総合的に見て、そういう状況の中で、普通の生活をした事実を大事にしたほうが良いのではないかと思う。

さらに言えば、報道される内容も、コンテンツ化している。言葉は悪いが、画面写りのいい場所、画面映えする被災地、おじいさんおばあさんの言葉、悲惨な状況。どれもワイドショーで報じられる芸能人の不倫と大差ない(結構誤解を生む断言だ)。しかし、報道されるかどうかは、被災地に、お金が行くかどうか。募金・寄付がされるかどうかでしかない。もしくは支援物資か?(個人でやっても意味がないため、結局金を送ったほうが良いだろう) 報道されなくても、お金が被災地に流入すれば、報道などされる必要はない。
消防、警察、自衛隊など、プロが活動したほうがよっぽど良い。
(それらが被災地に行く理由付けとして、報道して、有権者に納得させようとしているなら、NHKくらいだけで十分だろう。被災地に入るのは)

被災地のおじいさんおばあさんの声を晒すのは、どうなのか。そしてそれを見ている自分は何なのかという、ね。。。。それを晒して何になる。それを見て何になる。やるべきことは、金を払うこと。


もちろん、ことは簡単ではない。

自己嫌悪で、すべての報道を否定するつもりもなく、報道がもたらす効果も、娯楽性以外にあるということもわかる。しかし、なんだか、もやもやするという話だ。

結局何もできないなら、金を送って、とっとと普段の生活に移行して、1週間に1時間だけ地震のことを考えるくらいで良いのではないか・・・。と虚しくなってしまうわけだ。

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