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結婚してないことへの不快感

「できないとしないは違う。だから、できるようになってからしないことを選べ。」と自分に常に言い聞かせてきた。自分が嫌な人にならないためにと、自分が嫌いな人への当てつけだと思う。

LINEのともだちの誕生日を知らせる機能は、誕生日よりも他人の結婚を知らせてくる。この人だれだ?から、結婚したのかの流れを幾度となく繰り返している。出会い系で知り合った自称普通に生きれない女が結婚している。メンズエステで連絡先交換した女の子さえ結婚していた。普通じゃない、社不をファッションやアトラクションとして生きてきた人たちが普通になっていく。

普通なんてない。という言葉が考えなしに飛んでくる。普通はある。広く通っていることが普通だ。普通に生きれば最後の審判に役に立ったり、閻魔様に使えるとか、アビヌスに許してもらえるとかそういうわけではない。ただ、数の暴力だ。それでも、数が多いのは強い。ナチスドイツは数に支えられた。平安時代の貴族も民の税の上に立っていた。スーパーの魚売り場のイワシに怯えなくとも、海の中でイワシの群れに出会って怯えずにはいられない。

結婚できない。相手がいないとかではない。と願いたい。旅行したり、愚痴を言ったり、贈り物をするような人ならいる。だけど、結婚しようと思わない。ついでにいうと会社員になれない。仕事がないとかではない。個人事業主として仕事はもらっている。

どちらも組織に属すことだと感じている。意に反した行為を選択する義務が生まれる。それに耐えられない。

考えただけでもゾッとする。妻がスピリチュアルに傾倒した時に私はそれを攻撃せずにいられるだろうか。競取りを生き甲斐と呼び始めたら、大大大大大出世なんて目指し始めたら、自分の仕事に口を出し始めたら、あなたの稼ぎでは食べていけないなどと言われたら、人生観に口を出したとしたら、妻の親に政府批判の片棒を担がされたら。望まない未来が山のようにある。それは自分が思いを寄せる人を信じていないわけじゃない、その人たちを人だと思ってるから変わることを認めてるからだ。

会社だって何も変わらない。考えただけでゾッとする。ExcelファイルのA列は空白にするのがマナーだとか、ローマ字表記の日本語と英語を混ぜて変数名にするとか、下手な会議で2時間使うとか私の中に怒りを生む要因の温床になっている。

イワシよろしく、集団は強い。集団になるなら集団の力を最大限に発揮する努力をするべきだと思う。焼肉を冷ましてから食う阿呆がいるか、かき氷を溶けてから食う阿呆がいるか。そのものが持つそのものらしさを最大限に発揮させるために努めることが私にとっての善だ。私の閻魔様とアヌビスはそれを大切にしている。曖昧なまま、その日任せの風任せに生きることを避けるべきことだとしている。やってみないとわからないは無計画な借金だ。生き残った楽観主義者だけが自身のイデオロギーを振りかざしてくる。

そして、楽観主義者を攻撃している。運の悪い楽観主義者は叩かれる。それを恐れているのかもしれない。みんなが選んでいるそれを選ぶこと自体のオッズは低い。だからそれでいいはずなのにそれに手を出す勇気がない。

今の自分はしないのではなくてできないんだと思う。

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