『森林と文明の物語』安田喜憲著 書評
<概要>
地質の花粉調査からその時代・地域の植生を推測し、その植生に基づいてそれぞれの文明がどのような状況であったか解説する自然愛護主義者の著作。
<コメント>
植生と文明の連関について知りたかったので通読。個人的にはこの手の論者は私の好みではないので、ネガティブな感情を抱えつつも、なんとか読了。
⒈「好き嫌い」と「善い悪い」は別物
なぜ好みでないかというと、自然大好きなのは私も好きですし理解できるのですが、この手の論者は、好きなことは人によって違うのに「自分が好きなことはみんなが好きに違いない」と勘違いして「自分の好きを善きこと」として他人に押し付けてくるからです。
大半の人間が自然が好きなのは、生物学的には、そもそも人間の歴史20万年間の大半は都市化された環境では全くなく、自然豊かな環境の中で暮らしてきたので「自然の中で生きる方が心地よい」と感じてしまうのは理解可能。
でも一方で今は、都会の華やかな世界の方がいい、と思っている人も多数いるわけで、そういう都会好きの人に「自然の暮らしの方がいいのだから田舎に住め」というように見えてしまうから。
本書を読み進めるとわかるのですが、例えば同じような趣旨の著作であるジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』の場合は、誰にとっても「善」といえる「文明崩壊を避ける」という論点が明確だし、一部日本の内容含めてハテナマークは付くものの、ロジックも一貫しているのでおおよそ説得力があるのです。
しかし本書の場合は、ダイアモンドと同じように「森林を伐採すると文明が崩壊しますよ」というわけでもありません。
単純に「人間は皆、森林が好きだから森林伐採がいけない(→好き嫌いの問題)」のか「森林を伐採すると文明崩壊につながるのでいけないのか(→善悪の問題)」が曖昧なのです。
ただ全体読んだ感じでは前者が著者の趣旨で、いわゆるシンプルな自然愛護主義者。「森林は美しくて神聖な存在だから森林伐採は、まかりならん」という感じです。
単純に「森林は美しいから残すべきだ」といえばいいのですが、文明崩壊につながる、という理屈もとこどどころ混ぜてくるので、説得力がないなあ、と思ってしまうのです。
この手の論者(内田樹などの進歩的文化人)にありがちなパターンではありますが。。。。
そして「単純に森林が好き」という、この場合は「サッカーが好き」と言う場合となんら変わりません。好きか嫌いか、の問題を「善悪」の論点で論じるものではありません。
「好き嫌いの問題は、その人しだい」ですから。
とはいえ、読んで無駄だったわけではなく、地質の中に残存する花粉を調べてその時代・地域の植生を探る、という科学的側面はとても共感できるので以下興味深かった内容を整理。
⒉ギリシアがオリーブ畑ばかりなのはなぜか?
ギリシアに行くとよくわかるのですが、ほとんど自然の森林は残っていなくて、郊外に出ればオリーブ畑ばかりです。では実際こんな光景はいつから続いていたんだろう、というと、8000年ぐらい前から。
つまりプラトンやアリストテレスがいた時代(2400年前ぐらい)には、すでに私たちが今現在ギリシアで見る光景とほとんど変わらなかったのです。
8000年前のギリシアでは、ミケーネ文明が勃興。ミケーネ文明はミケーネ式と呼ばれる土器や青銅製品を大量に生産する文明。
土器や青銅器を作るには薪を使った火力が必要だし、製作した土器や青銅器は地中海・エーゲ海の他の地域にも運搬したので、運搬のための船も必要、ということで、当時あった豊富な木材=森林は、この時すっかり伐採されてしまったのです。
加えて人口増大によって農地も必要になり、森林伐採は加速。
森林伐採して農地にすると、この時代は豆類との輪作などの技術もなく、今のように化学肥料もないので栄養不足になり、あっという間に荒地に。また森林伐採して放っておくと表層の土壌は風によって剥がされ、不毛の大地が出現。
こんな荒れた土地でも生きていける樹木がオリーブ。8000年前まではナラなどの森林を形成する樹木の花粉が多く、ミケーネ文明が勃興すると途端に樹木の花粉が急減し、イネなどの草食系の花粉が増大するというのです。
オリーブは土壌の悪い岩が剥き出しの土地でも生育できる作物。石灰岩の赤色の風化土壌が露出したギリシャでもオリーブだけが生育可能だったのです。
⒊アンフィポリスの森林をめぐって争ったペロポネソス戦争
それでもギリシア北方テッサロニキ近くのアンフィポリスにはまだ豊かな森林が残っていました。アテネ(ペリクレス時代)はここの森林を活用して船を建造し、エーゲ海を支配。
ところが、その支配権を維持していたアテネから、マケドニアと結託してこの森林を奪い取ったのがスパルタの将軍ブランディアデス(プラシダス)。
塩野七生著『ギリシア人の物語Ⅱ』(205頁)でもアンフィポリス攻略の目的の一つが、北方の森林確保だと述べています。
この間、アテネ市郊外にあったアッティカの森もスパルタ軍に燃やされ、表層の土壌が流されてコパイ湖を侵食し、コパイ湖が湿地化。この結果、ハマダラ蚊が大量発生して感染症が広がるという結果に。
⒋キリスト教が古代ローマ帝国で拡散した理由
古代ローマ帝国は、ローマ人の風呂好きや、都市化や軍事目的の土木・建築工事の隆盛によって、火力エネルギーとしての薪が大量に消費され、ローマ帝国中の森林の伐採が進みました。当時のエネルギー源は私たちのような化石エネルギーではなく「木材」だったのです。
さらに銀を生産して通貨として活用。銀の精錬にも大量の薪が必要とされた結果、浴場業者と銀の精錬業者とで薪の奪い合いも起きていたといいます。
こうやってローマ帝国中の森林が伐採された結果、古代ギリシア同様、土壌の表層が風雨で流されて沖積平野に流れ込み、川の河口を埋め、湿地帯が増大し、ハマダラ蚊が繁殖して感染症(マラリア)が増大。
2世紀以降は気候も寒冷化し、疫病も流行して市民が疲弊する中で信者を増やしたのがキリスト教。
キリスト教は病人や弱者救済を義務付けていたこともあり、洗礼を受ける市民が増えたのです。
高度な医学や衛生観念などの文明=啓蒙主義がいまだ存在しないこの時代、庶民の困窮を救ってくれるのは宗教でしかありませんでした。そうしたときに、キリスト教は最も弱者に寄り添った宗教として人々の心を救ったのです。
日本の聖武天皇が奈良大仏を建立して仏教を広めることで疫病退散を願ったり、京都の祇園祭で牛頭天王を祀って疫病退散を願ったのと同じことです。
キプリアヌス曰く「疫病は正しいキリスト教を広めるために祝福を与えてくれる」
⒌縄文時代は理想的な時代?
考古学や歴史学・人類学などの知見に基づいてベイジアン的に歴史をみれば、縄文などの原始狩猟社会は、感染症や殺人で、寿命を全うせずに死ぬ人の割合が多く、とても理想的時代とはいえないのですが、著者の場合は「こんなにいい時代はなかった」といっちゃいそうなぐらい褒め称えています。
2500年前の中国古代に生きた孔子が、堯舜禹の時代が中国にとって最も理想的な時代、と言っていたのはまだわかりますが、最先端の科学者たる現代に生きる著者が「現代はひどい時代で縄文時代の方が良かった」というのは、よく理解できません。
とのことですが、これは同社会比較としての相対評価。
確かに「縄文時代は、他の地域の原始狩猟社会と違って殺人率は1.8%で、他の原始狩猟採集社会の5分の1程度と少なかったらしい(2016年岡山大学論文)。
とはいえ、現代の世界平均殺人率は0.0065%だから、暴力の少ない縄文時代だとはいえ、その殺人率は今の280倍で最も治安の悪い国(ベネズエラ)と比較しても、比較にならないほどの治安の悪さです。
しかも人殺しの武器はなかったとのことですが、他の論文では弥生時代のように殺傷能力の高い武器がなかっただけで、明らかに人殺し用の武器(石斧など)もあったらしい(立命館大学論文)。
自然からの食料獲得が容易だった日本列島の場合は、他地域と比較しても食糧で争う必要があまりなかったのかもしれません。
縄文時代という農耕牧畜を伴わない定住社会は、世界中の狩猟採集社会でも特殊な社会で、農耕牧畜しない狩猟採集社会では定住すると食糧が枯渇するので、移動しながら食糧摂取するのが一般的だったからです。
⒍人間中心主義は、自然中心主義に優る
個人的には森林保護含む環境保護や自然保護は、ヒューマニズムに基づく考えでないと善きことではないと思っています。
つまり自然が好きだからといって自然保護が私たち人類全体にとって善きこと、とはいえないのです。
なので私は「地球にやさしい」という言葉が嫌いです。
極論すると「人間は、たくさん死んでもいいので今の地球環境は守るべきだ」という考え方は説得力がないと思っているのです。
地球が主語ではなく「人間が安全に快適に永続的に住める地球」が善きことであり「人にやさしい地球」が大事だ、という考え方。
私たちは「人にやさしい地球」を現在の子供達や未来の人類に残していくために環境問題に必死に取り組んでいる、と思っているからです。
*写真:美しい伊豆の里山(2023年3月撮影)