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「プラトン入門」竹田青嗣著 ープラトニズムー


<概要>
著者の考えるプラトン思想の本質を、アリストテレスカントヘーゲルニーチェハイデガーから現代思想に至る、あらゆる哲学を引用しつつ著者独自の解釈を展開した著作。

<コメント>
だいぶ前に読んでいたのですが、プラトン主要著作の通読に至り、改めて著者竹田青嗣によるプラトン解説読みましたが、やはり、その理解の「深さ」と時代をクロスオーバーしつつ引用される哲学者や古今東西の作家(ドストエフスキーなど)の引用と解釈に基づく理解の「広さ」は、驚嘆せざるを得ません。

「単純にプラトンってどんな思想家だったのか?」も、もちろん、本書を通してわかりやすく紹介されています。しかし著者の真骨頂は単なる紹介に止まらず、各時代の名だたる思想家(哲学者)のプラトン解釈も紹介して、その是非についても著者なりの解説を加えてくれています。その上で、著者ならではのオリジナルな解釈を加えていくという、三段重ね構造になっているので「これでもう十分です」という読後感。

著者は「あとがき」でも一部紹介している通り、プラトン・ニーチェ・フッサール・前期ハイデガーの系譜を継ぐ「欲望論哲学」を展開していますが、その端緒たるプラトンに対する愛情が本書を読んでもひしひしと伝わってきます。

さて、改めて本書を読んで印象に残った箇所は以下の通りですが長くなるので個別展開します。まずはプラトニズム。

■形而上学としてのプラトニズムという誤解
イデア論は、彼岸の世界に「イデア界」という実在する世界があって、魂を磨いて身体の欲望から逃れられれば「イデア界」という世界秩序の最高原理に到達できる、みたいな説(=プラトニズム)として批判されていますが、その傾向が強くあるのは認めつつ、イデア論の本質は、人間同士が言葉を使ってコンセンサス形成していった先にある普遍性をめぐるその普遍的思考にあるといいます。

ここでエマニュエル・カントを引用しつつ、

世界の起源や限界はどうなっているのか?死んだらどうなるのか?「神」のような存在がいるのか(=世界の根本原因はあるのか?)。この問いには答えがない。哲学的には、この問いに「答えがない」(答えがわからないのではない)ははっきりしている(第1章46頁)

として一般に言われているプラトニズムは否定し、プラトニズムは、カントが「答えがない」とすでに証明済としています。具体的には、

「原因ー結果」という系列で答えが出るのは、二つの領域において、つまり、経験の領域と純粋論理の領域においてである。火は温度が高いので火傷する。これが経験の領域。1+1=2である。これが純粋論理の領域。しかもこの二つの世界は一見つながっていて相互に転換可能に見えるが、原理的には全く異質な世界だ(同47頁)
純粋論理の世界では厳密な論理秩序を持っている。ところが経験世界では、概念はその都度何らかの観点を示すだけであって、純粋論理の世界においてのような厳密な秩序をもたない
純粋な論理的推論の世界は、経験の世界とは「原理的に」必然な関係を持ってはいない(同48頁)


ところが、人間は「答えがない問題」であっても「理由」や「原因」を、根本まで突き詰めたいという本性があるのでそうぜざるを得ない、とカントが言っているそうです。

現代に生きる私からみると、この「因果律を求めざるを得ないという人間本性」は、自然科学(脳科学進化論)や社会科学(行動経済学)でも哲学の後追いで仮説として展開しており、哲学の世界からすれば「今頃そんなこと言ってるの」という感じです(カントが250年前に純粋理性批判という著書で証明済)。

そして「経験世界(我々の生きる現実世界)は因果律の世界ではない(=偶然の支配する世界)」というのは、まるで近い過去に流行った複雑系の学問のよう。

結構、最近流行りの生物学・心理学などを勉強していると、すでに哲学者が唱えていることを追っかけで証明しているような仮説によく出会うので、もっと哲学は一般に注目されてもいいのではと思っています。

さてプラトンに戻れば、(カントの証明を待つまでもなく)以上のような「因果関係の視点」を否定し

さまざまな原因の根拠なるものの本質は、事実的な、あるいはそれを表示する論理的な「因果の関係」としては捉えられない。なぜならそれは任意の観点を生み、したがって任意の系列を作るから、多くの「原因」と呼べるものを生み出して、まさしくそのためにどこにも行きつかないからだ。さまざまな秩序の真の「原因・根拠」とは、むしろ、何が「善」であるかという価値的な「根拠の関係」に本質を持つはずだ(同58頁)


との如く「何が良くて何が悪いのか」という「価値の関係の視点」から物事をみるべきとして、価値に基づく哲学を展開するのです。

続く。

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