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日本と途上国の貧困の違いとは?『世界「比較貧困学」入門』

<概要>

日本含む世界中のフィールドワークに基づき、日本の「相対貧困」と発展途上国の「絶対貧困」の違いを比較することで「貧困」とは何か?を深く考察した2014年出版の新書。

<コメント>

コートジボワール含む西アフリカの世界でも類を見ない不思議な通貨「セーファーフラン」の勉強で原寛太のYouTubeの視聴をきっかけに彼の番組の視聴者となりましたが、

特に日本の貧困問題について以下動画を視聴し、動画の中の「日本の貧困は孤独である」という視点が非常に興味深く、原貫太が動画中で紹介していた本書『世界『比較貧困学』入門」をさっそく図書館で借りて読んでみました。

私自身は、日々の衣食住に困るような生活、つまり絶対貧困は、日本においては失業対策と連動しつつ完全に撲滅させるために今のようなプル型ではなく、プッシュ型で積極的に支援すべきだ、という立場ですが、それ以上は個人の自由、というスタンス。

したがって、相対貧困は問題ではない、という立場は変わらないのですが、相対貧困者に多い望まない孤独に関しては、孤独問題として何らかの行政的な対策が別途必要に感じます。

絶対貧困とは
1日2.15USドル以下(2022年時点:本書発行の時点では1.25USドル)の暮らしのことで、最低限必要とされる食糧と食糧以外のものが購入できるだけの所得または支出水準(=貧困ライン)に達していない状態で2022年末時点で6億8千万人と想定(世界人口の約9%)。

日本経済新聞より

相対貧困とは
等価可処分所得(1世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割った数値)が全人口の中央値の半分未満の世帯員。2021年時点の日本の場合、可処分所得が127万円以下の世帯で全体の15.4%と先進国の中でも貧困率が高い。

内容は本書5頁。数値は日本経済新聞より

本書は日本の「相対貧困は問題だ」という立場ですが、その内容を吟味するにあたって、絶対貧困含めた発展途上国の実態のうち、気になった点を確認した上で絶対貧困と日本の相対貧困について見てみたいと思います。

⒈途上国の都市圏では「富裕層」「庶民層」「貧困層」が明確に分かれている

多くの途上国の都市圏では、階層によって居住地域が明確に分かれていて、具体的には「タウン=富裕層」「ダウンタウン=庶民層」「スラム=貧困層」の三つのエリアに分かれています。

私たち日本人が発展途上国に行った場合、ほとんどが「富裕層」の暮らす地域で宿泊・滞在し、仕事し観光しています。そして庶民の暮らしを体験したい、ということで自由旅行で途上国に行ってもせいぜい行けるのは「ダウンタウン」まで。

それでは、なぜ「スラム」に行かないのか?理由は単純です。「危ないから」です。

したがって本当の途上国の姿を知るためには、危険を顧みないYouTuberの原寛太や、本書著者の石井光太、またはノンフィクションライターの高野秀行のような著書や動画が非常に参考になります(都市のスラム街ではありませんが、以下高野秀行のおすすめの本)。

具体的には、本書が紹介するケニアの首都ナイロビの事例でその三つのエリアを見てみます。

⑴タウン(富裕層)

至る所に自動小銃やショットガンを持った警官や警備員が目を光らせており、オフィスで携帯電話を片手に歩いているのはスーツ姿の富裕層のみ。彼ら彼女らは、朝から夕方5時ごろぐらいまでタウンで仕事した後、少し離れたところの高級住宅地の邸宅に帰る。邸宅の壁は3メートルあって、強盗対策として高圧電流が流されている。

→自分の経験では、南アフリカのヨハネスブルグやケープタウンとほぼ同じ状況。ちなみにコートジボワールの大都市アビジャンの場合は治安が良いため高圧電流流れてませんでした。アジアの貧困国、ネパールやスリランカなどもコートジボワールと同じ印象。

⑵ダウンタウン(庶民層)

ブランドショップや高層ビルはなく、鉄格子がはめられたキオスクのような店が軒を連ねており、人々は鉄格子の外から店の品物を指さして買う。ここに暮らす人々は絶対貧困ではないが、中卒ぐらいの学歴しかなく、雑貨屋やバイク修理業や食堂を経営したりタクシー運転手や警備員などが生業。

収入は月に数千円〜数万円で外国に出稼ぎに行っている人も多い。

→コートジボワール・アビジャンでは、全然こんなセキュリティーなし。ヨハネスブルグ同様、ナイロビは相当に治安悪い印象。つまり同じ途上国&新興国にあっても、その治安状況の実態はだいぶ異なりそう。

⑶スラム(貧困層)

スラムとは貧困者が家を買ったり借りたりするお金がないために、空き地を勝手に占拠してバラックを建てて住んでしまった土地のこと。したがって電気・水道・ガスがない。ナイロビの場合は、人口320万人のうち、半分の約160万人がスラム在住。

*他途上国の都市のスラム人口の割合:インド56%、ナイジェリア79%、エチオピア99%!!

彼らの主な仕事は、単純労働、廃品回収業、工員などの低収入の仕事。

⒉途上国の絶対貧困と日本の相対貧困の違い

「孤独か、孤独でないか」

⑴途上国の絶対貧困には孤独がない(=プライバシーがない)

絶対体貧困者でもなんとか毎日餓死せずに生活していけるのはなぜでしょう。それは絶対貧困者同士で助け合いをしているからです。

毎日その日暮らしの彼らは、明日食べるパンがない場合は、同じスラムでコミュニティを形成する血縁・地縁関係を頼るのです。親戚はもちろん同じ出身地方(または出身国)同士で連帯し、お裾分けをもらってなんとか凌ぐのです。

お裾分けをする方もギリギリの生活をしているのになぜお裾分けに応じるのでしょう。それは自分が仮に明日食べるパンがなかった場合、同じようにお裾分けしてもらうためです。

スラム街で生きていくためには、そうやってお互いが助け合っていくことで、ギリギリの生活を維持していると言っても良い。

私の考えでは、むしろ助け合う精神がなければ、仲間はずれにされ、生き残っていくことができなくなってしまうということ。ですから「善意の助け合い」ではなく「生き残るための助け合い」なのです。

この結果、彼らは「孤独」に暮らすことはできません。コミュニティに参加せざるを得ない。参加できないと生き残れませんから。したがってプライバシーもまったくなし。したがって孤独もないのです。

この辺りは原始狩猟採集社会と同じだなという印象。

基本ストック(余剰食料など)は持たず、狩猟採集したものをその都度共同体全員で平等に分け合うシステム。なので一部の優秀な狩人がいたとしても彼にそのプライオリティーはなく全てみんなで分け合う。

これは不公平だと言って優秀な狩人が独立しても部族間の争いに巻き込まれるなど、それ以外の面で共同生活しないと生きていけない場合が多いため、結局は「集団に戻るしかない」というのが原始狩猟採集社会(詳細は以下著作参照)。

⑵日本の相対貧困は孤独(=プライバシーがある)

日本の貧困は相対貧困ですから、基本的にその日暮らしではありません。そして課題はあるものの基本的には福祉制度も充実しているので、コミュニティではなく行政が支援してくれます。

過去に日本でも長屋に暮らし、助け合うことで貧乏を凌いでいた事例もありましたが、戦後に経済発展する中で、低所得者は住宅扶助を支給され、宅配食事サービスを提供されることによって、コミュニティに頼らなくても生きていけるようになったのです。

ところがコミュニティに頼らなくてもいい、ということはコミュニティを喪失することでもあり「プライバシーの確保」は「孤立」でもあります。

要は本人がどう感じるか、ではありますが、総じてコミュニティがなくなると「孤立」を感じざるを得ない状況に放り込まれやすい。

一般庶民は、家族と同居したり職場があったり、地方であれば地域活動したりするので孤独を感じる機会は少ないのですが、貧困者の場合は、何らかの理由で仕事ができず、家族からも孤立している場合が多い。

さらに日本の相対貧困者は高齢者も多く、社会との接点が少ない人が多いので尚更です。

なお、著者は逆に日本の場合は「プライバシーの欠如」も相対貧困の問題として取り上げているのでちょっと話をややこしくしています。もちろん状況は理解するのですが。。。

1番の問題はプライバシーの欠如だ。日本では住宅扶助があるとはいえ、低所得者の多くが六畳一間ぐらいのスペースに暮らしており、場合によってはそれが共同だったり、浴室がついていなかったりすることもある。

本書37頁

つまり著者は途上国との比較ではなく、同じ日本に住む一般庶民との比較をしてしまっているのでややこしくなってしまう。

むしろ途上国の絶対貧困と比較すると、日本の相対貧困は圧倒的にプライバシーは守られています。だから孤独なのです。

個人的には、相対貧困者の孤立化は、こちらからプッシュ型で手をさしのべて何らかのコミュニティに取り込むしかないのでは、と思いますし、実際豊中市のように取り組んでいる自治体もあるようですが、本人がコミュニティに参画したいかどうか、という問題もありますので、非常に難しい。

⒊日本の相対貧困と途上国の絶対貧困の違い「比較されるか、されないか」

私が原貫太のYouTubeを見てなるほどと思ったのがこれ。途上国に行けば、どこに行っても子供達は無邪気に笑って毎日楽しそうに生きているように見えてしまう。

そして「がんじがらめの日本よりも、むしろ途上国の方が人間らしく生きられて幸福なのでは」と思ってしまう。

でも、本当にそうでしょうか?

途上国の都市の場合、絶対貧困者はスラム街に集中しており、富裕層や中間層が住んでいる地区と明確に分かれています。したがって彼らと交流することもほとんどありません。なので自分たちの状況を比較する機会がほとんどないのです。

例えばスラム街の子どもたちの場合、同じような境遇の仲間に囲まれているので必要以上に自分の境遇を悲観する必要がありません。良くも悪くも現状を受け入れてしまう。

つまり自分に不足しているものを知らなければ、自分が不足していること自身を自覚することはほとんどありません。

ところが日本の場合は、こうはいきません。

もちろん東京都港区だったり兵庫県芦屋市だったり、学費の高い私立学校に通ったり、平均的に富裕層が固まっている場所はあるものの、おおよそは貧困層も中間層も富裕層も混在して住んでいるのが日本

学校も公立であれば地区別なので、貧困層・中間層・富裕層が混在して子どもたちは学校に通うことになってしまうため、貧困層の子供達は自分の貧困なる境遇を意識せざるを得ません。

貧困を貧困だと思わないのが途上国、貧困を貧困だと自覚してしまうのが日本

というわけです。

したがって日本の貧困は相対貧困であっても「相対的」であることによってより精神的にネガティブに感じてしまう一方、途上国の貧困は、みんな同じなので自分の境遇に対してネガティブに感じるどころか「みんな一緒感」的な安堵感さえ保持してしまうのです。

⒋精神障碍者は、野垂れ死するのが途上国。ホームレスになるのが日本

日本の場合、相対貧困のうち、ホームレスのシェアの多くを占めるのが精神障碍者。

NPO「TENOHASHI」によれば、池袋のホームレスを実態調査したところ、おおよそ6割が精神障碍者だったといいます(知的障碍34%、うつ病15%、統合失調症10%)。

つまり日本のホームレスの場合は、何らかの精神疾患を伴った患者や障碍者に対する対策として何らかの行政的支援が必要、ということかもしれません。

したがって日本のホームレス問題は貧困問題、というよりも精神疾患問題として対策を講じるべき問題ではなかろうか、と思います。

それでは、途上国の精神疾患者に対する状況はどうなっているのでしょう。これは衝撃的です。

インドのコルコタでのホームレスの話では

この街の道端で生きていくのは大変なんだよ。知的障碍のある人は、幼くして死んでしまうか、田舎から来てすぐに命を落としてしまっている。たとえば、彼らは何もわからないから真夏に布もかぶらずにそこら辺で寝て熱中症になってしまうし、フラフラと歩いていれば車に轢かれてしまう。腐った食べ物を口にして食中毒を起こしてしまう者もいる。そうやって早い段階に死んでしまっているんだ。

本書81頁

著者はこれを「自然淘汰」だとし、日本のような恵まれた社会ではホームレスであっても淘汰されることはありませんが、途上国では環境によって有無を言わさず淘汰されてしまう、というのです。

⒌労働意欲を喪失しやすい日本の生活保護制度

「フルスペックのベーシックインカムを導入すると労働意欲を喪失してしまう人が多発してしまうから反対だ」という意見がありますが、日本の場合、どうやらこれは現実のようです。

日本の生活保護制度は、単身者で月額10万円台前半(=家賃5万円+生活費5万円ちょっと)。子供が二人いる母子家庭の場合は、平均年収268万円(月額22万3000円)。

さらに障碍があれば1級の場合、障碍基礎年金が年間98万3100円。

このように日本の生活保護制度は、いったん支給されれば憲法25条の通りに最低限の「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことができます。

特に子供二人のシングルマザーの平均年収268万円で、医療費は無料で所得税・住民税も無料なので、実質月収30万円稼いでいる人と同等の生活レベルを送ることができるのです。

いったんこのような生活保護を受けると、おおよそ人間は100日間で労働意欲を喪失すると言われます。なので市の職員などは、生活保護者を社会復帰させるには100日以内が勝負だと言います(詳細は以下書籍参照)。

大阪府の職員曰く

誰だって仕事を持って自立したいと考えるは当然でしょう。しかし、生活保護をもらって暮らす方が高い生活レベルを維持できるなら、なし崩し的にそっちを選択してしまうことはやむを得ないんじゃないですかね。そして一度生活保護を受給してしまうと、なかなかいい条件の仕事が見つからないから、ずっとそれにしがみつくようになる。やめたくてもやめられないという人もたくさんいるんです。

『世界「比較貧困学」入門』133頁

したがって私の考えでは、マイナンバーで全国民の収入と資産をガラス張りにした上で、生活保護制度は廃止し、健康な失業者は失業対策とセットで就労支援。障碍があって働けないなどの不健康な失業者は、プッシュ型で積極的に支援する、というように「働けるのか」「働けないのか」を基準に福祉制度を抜本的に変更することが必要に感じます。

さらに最低賃金でフルワークした場合(たとえば年間労働時間2000時間以上)には生活保護制度を上回ることができるような水準まで最低賃金を引き上げることが必要に思います。

なお、開発経済学者バナジー共著『絶望を希望に変える経済学』では、世界中のベーシックインカム関連の社会実験では「生活するに十分な支給を得ても労働意欲は無くならない」という事例も多いので、日本の事例は特殊なのかもしれないし、働く意欲さえあれば支給されようがされまいが関係ない、ということかもしれません(詳細は以下参照)。

⒍日本の貧困は「愛の貧困」

結局日本の貧困というのは経済的な貧困というよりも「愛」の貧困だということ。

特に途上国と違って日本の貧困は絶対貧困ではなく、他者と比較した上での貧困だから「貧困の自覚」が日本の貧困問題の核心。

貧困を自覚すると自己否定につながり、自信を喪失して孤独になりやすい。つまり「愛の貧困」になりやすい。

だから、日本では「愛」が必要。著者が「さいごに」で引用しているマザーテレサの言葉が印象的です。

飢えとは食物がない、ということではありません。
愛に飢えるのも、飢えです。

『世界「比較貧困学」入門』265頁

ただし「人の世話になるのが嫌だ」という方も多いので、上述のバナジーの主張する人間の尊厳を傷つけない範囲での対策が必要かもしれません。

バナジー曰く

社会政策の設計においては、救済をすることと人々の尊厳に配慮することとのせめぎ合いにどう対処するかということをつねに考えなければならない。

『絶望を希望に変える経済学』第9章:救済と尊厳のはざまで

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