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「科学的思考の限界」 脳科学編


引き続き「進化しすぎた脳」からの知見です。

ホモ・サピエンスという種ならではの外的な特徴というのは「直立2足歩行(鳥は直立していないので違う)」ですが、内的な特徴は「言語」を操れること。

言語化できることによって、抽象的な概念を扱うことが可能(汎化という)になり、抽象的な概念によって記憶が可能になって、ワーキングメモリや可塑性を持った脳が生成された。

脳は、反射的にも意識的にもインプット情報を判断していくことによって環境に適応化してきたといえます。

脳の記憶は、コンピューターのように「1」か「0」という2進法のデジタルな形での記憶ではなく、抽象的な概念としてあいまいに記憶しているため、このことがランダム(不可知と言ったらよいのか、偶然性と言ったら良いのか)な飛躍を起こし、創造性を生んでいくといいます。

これを脳のミクロな構造でみていくと、神経細胞のスパイク(活動電位)が出るか出ないかに関してはコンピュータ同様「1」か「0」かのデジタル処理。ただし神経では「1」か「0」かの決まり方があいまいなところがアナログになっている。

以上の仮説に鑑みると、脳はあいまいで常に変化しており、決して同じ現象が生じない。同じ現象が生じないのであれば検証が原理的に不可能であり「脳はこのような機能」と言える科学的仮説を提示することができない(=再現性がない)。

池谷氏曰く
「シナプスが”強い””弱い”という二つの状態しか持ち得なかったとしても、回路のシナプス状態の組み合わせ数は、2の1,000兆乗だよね。宇宙原子の数を遥かに超えている。それだけ膨大な要素が絶えず時間とともに変化していくのだから、脳が再び同じ状態に戻るということは確率的にいってありえなさそうだ。脳は常に変わっていく。これこそが我々が主張する「非エルゴード性」だ」

「非エルゴード性」っていうのは私にはさっぱりわかりませんが、つまり池谷氏も「脳には再現性がない」=「科学的に解明不能」という結論。

ノヴァル・ユア・ハラリは「21Lessns」の中で
「2018年現在で、私が直接アクセスできる心は私自身のものしかない。もし他の感覚ある生物が何を経験しているかを知りたければ、間接的な報告に基づいてそうするしかないが、そうした報告は当然ながら、多大な歪曲や制約を免れない(21瞑想より)」

といい「心というのは、自分そのものであって心Aと心Bを比較することがそもそもできない。つまり検証不能」と言っている一方、池谷氏は「再現性がないものを科学的に検証しようがない」と言ってその不可能性を指摘。科学は再現性のある事象に限って考察可能で、再現性のないものは科学が扱う領域ではありません。

以上、心や意識問題は、自然科学的手法では永遠に解けない謎であるのは、脳科学的にも致し方ないといえます。

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