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民主主義の正当性とはー西研著「哲学は対話する」より

本書では「近代市民社会の原理(※)」が現時点で最も優れた政治思想だということが、前回説明した正義の「本質観取」によって結論づけられています。

※近代市民社会の原理=著者の表現では近代的正義(民主主義の原理)。どんな人間でも人間として対等の権利を与えられて共存できるということ。しかも、その社会を自分たちの自由な責任において営むということ。万人に生産と消費の権利が保障されていること。そういう基本ルールを前提にして、互いに相手の自由を認め合うこと(竹田青嗣)。

■本質観取に基づく「正義論」

本質=意味+根拠。したがって「正義」の「意味」とその「成立根拠」について著者は精査します。様々な体験例に基づくと、正義には以下の「6つの意味」がありそうだというのがわかります。

Ⅰ)社会正義(人びとが社会において共存する際に「かくあるべきである」とされること)
Ⅱ)積極的な行為としての正義(悪や不正をただす行為)
Ⅲ)全くの利他的行為としての正義
Ⅳ)(直接に他者に危害や損害を与える行為)
Ⅴ)不正(ルールを密かに破って私的利益を獲得する行為)
ⅵ)日常的に守られている行為(ルールを守り他者を侵害しないでいること)

そして上の6つに共通するものが、ⅵ)の日常的に守られている行為のこと。そしてその成立根拠は以下「共感性」と「約束性」の二つのキーワードに基づく。

*共感性:「相手がされたくない辛いことを自分はしたくない。自分もまたそうされたくない」という感覚を確かに私たちのほとんどがもっているだろう。この感覚のことを共感性と呼ぶ。
*約束性:相手に対する自分の感情は別にして「互いを傷つけないという条件のもとで、私たちは社会を構成するメンバーとして共に生きていくことにしよう」という約束が正義の感覚には含まれている

つまり

殺さない、傷つけない、ということの根底には他者を自分と同じく感情や意思を持った人間だと感じていること(共感性)があるが、それに加えて殺さない、傷つけないということが社会生活を送っていく上での最低限のルールだということ(約束性)がある

この結果、

互いを同じ社会を構成する対等なメンバーとして認め合い、そして互いの共存・共栄のために必要なルールを作って守っていこう、そのための負担も担っていこう、という約束

が成り立ちます。この結果、正義の本質とは、

人びとが互いを、社会を構成する対等な仲間として認め合い、自分たちの平和共存と共栄のために努力しようと意志するところから生まれる「あるべき秩序の像」や「正しさの感覚」これが正義と呼ばれる

となり「近代市民社会の原理」が「正義の本質」となるのです。

■正義の本質に基づく政治思想

これは西洋はじめとした民主主義国家においては既に確立していますが、よりルソーやヘーゲルなどに遡って整理すると、哲学者竹田青嗣によれば、

近代社会は、各人の「善」つまりどう生きるのが各人によって「よいーほんとう」であるかは多様である。そこで近代の「社会的な善」は、人間の良き状態についての、特定の理想理念を選び出すことはできない。そのためそれはただ、各人が自分の個別的な「よいーほんとう」を追求しうる一般条件としての生活水準の持続的な上昇ということ、そして法や社会制度の公平性と公正性、ということに収束する

そして

社会から暴力性を可能な限り排除して、これを明確なルールによって営まれる「完全ルールゲーム」に変える試みと述べている。これは、社会をルールのみによって営まれるスポーツのようなゲームに変えようとすることを意味する。当然そこでのメンバーは民族や文化や男女のような属性には無関係に、権利・ルールに服するものとしての対等性をもつことになる。

全く同感で「完全ルールゲーム」という概念(私の考えている「社会の虚構」)は、つまり相撲でいう「土俵」であって、このルールに則って「何をプレーするか」「どう相撲を取るか」は個人の自由。

近代以前の国家や、王族・権威主義をはじめとした現在の独裁国家は、至高の権威・権力に従うことが正義とされていますが、近代以降の正義は、近代市民社会の原理の実現こそが政治的正義というのが、著者の本質観取によって結論づけられたのです。

■正義の範囲

ここで問題は「共感性」と「約束性」を共有するメンバー範囲の問題「共存の意志」をどの範囲までにするかという問題

戦前の日本であれば大東亜共栄圏の人間のみが列島に同化する前提での共存メンバー(小熊英二)でしたが、戦後日本では、他のアジア諸国人や西洋人・アフリカ人なども異質な「外」の存在として認識していません。皆同じ人間として同じ感情を持ち、それぞれの土地で生活している生活者という感覚を持ち合わせています。

そうやって考えると現代社会においては、著者は世界に住むすべての人たちが「共存するメンバー=世界市民」として日常的なものになっていると言っています。

ただし、個人的には国際ルールをときに逸脱する中国や北朝鮮、ロシア(実はアメリカもですが)についても果たして同じ「世界市民」として認識すべきかどうか、は市民レベルでは同意しますが国家レベルではどうでしょう。

彼らが我々と同じ「近代市民社会の原理」を正義として持ち得ない以上、残念ながら現実的にならざるを得ないのかもしれません。

著者も

現代の世界は人類として共存・共栄するための政治制度を目指す、試みの途上

としており、同じような認識ではないかと思います。

とはいえ私見では、中国やベトナムなどの共産党独裁国家・中東王族独裁国家など、力によって獲得した独裁制でも経済的自由が獲得できることを証明してしまったので、ますます「世界市民」の実現は困難になってしまった感じはします。

詳細は以下ご参考

*写真:2008年 南アフリカ共和国 クルーガー国立公園

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