『人はどこまで合理的か』 論理の限界とその対策
ここからは『人はどこまで合理的か 上』における個別の知見について。
今回は合理性のうち「論理」についての知見。
論理とは、真である「前提」から、真である「結論」を導き出すこと。
哲学の世界では、すでに論理の限界は明確になっていて、古代ギリシャ時代にソフィストがいかに相手を説得するか、に論理を使って自分に都合の良い結論を導き出したり(これを詭弁という)、日本ではオウム真理教が世間を騒がせた時代に「ああ言えば上祐」という、流行り言葉もあったぐらい。
論理の限界について、本書では経験論者ヒュームの「論理的命題と経験的命題が根本的に異なること」や、
ヴィトゲンシュタインの家族的類似性、いわゆる私たちの意味理解は家族に見られる身体的類似性と同じように「言語ゲームの単位ごとにに共通する人々のやり取りに依存していること」などを事例に出して論理の限界性を紹介。
したがって私たちは合理的思考は重要でありつつも、誤った論理(「誤謬」という)には気づく必要があると著者は提言しています。
■論理の検証「形式的再構成」
形式的再構成とは、論証を分解して一式の前提と条件文へと解読すること。そうすれば、論理の飛躍や命題そのものの欠陥に気づくことができるといいます。
例えば本書第3章のアンドリュー・ヤンという民主党の大統領立候補者によるベーシックインカム導入のための論法を著者が要約。
別にベーシックインカムを著者が否定しているわけではないのですが、以下の論法は、疑わしい内容と論理展開がいくつか、あります。
このように一つ一つ論理を分解して個別に検証する癖をつければ、その論理に説得力があるかどうか、判断しやすいというのが「形式的再構成」。
■非形式的誤謬かどうかの検証:藁(わら)人形論法の事例
次に著者が紹介するのが非形式的誤謬。非形式的誤謬は論理的には一見正しくみえ、なんとなくそうだなって思ってしまいがちな論法。
非形式的誤謬は、様々な形でウェブ上で公開されているというので、日本における一覧表ないかなと思ってググったら、公立函館みらい大学の作成した一覧が一番わかりやすかった。
その中でも、ひとつ時例をあげると「藁人形論法(ストローマン)」が面白い。
藁人形論法とは、相手の主張を不当に言い換えて攻撃する論法。
最近統計学の勉強でお世話になっているYouTuber「謎解き統計学:サトマイ」によれば、ひろゆきがよく使う論法とのこと(以下動画は、なんと260万回以上の再生実績!)。残念ながら、というかピンカーの説明よりサトマイの説明の方が100倍わかりやすい。
藁人形論法をサトマイの事例で紹介すると、ある番組での「ひろゆき」と「とろサーモン久保田」とのやり取り。
これが「わら人形論法」です。ひろゆきは「犯罪を犯したことで注目を集めて興行成績を上げることは許される」という架空の藁人形を召喚して藁人形に釘を刺したのです。
久保田の「作品に罪があるかどうか、損失が出るかどうか」という論点を提示したのに対し 「 殺人者を出して儲けているかどうか」という別の論点(=藁人形)を出して論点をすり替えているのです。
その他本書では「つまりあなたが言いたいのは論法」「ゴールポストを動かす論法」「お前だって論法」「衆人に訴える論法」「権威に訴える論法」などなどを紹介。
■非形式的誤謬かどうかの検証:権威に訴える論法
特に「権威に訴える論法」に関して、ある人が12人のノーベル賞受賞科学者が唱えた非合理的な説を列挙したところ、その中には「優生学」「占星術」「特殊なハーブ療法」「科学的人種差別主義」などなど、数えきれないほどの非合理的主張が含まれていたといいます。
つまりノーベル賞受賞科学者であっても完全ではなく、特に自分の専門外のことに関しては、われわれ庶民とほとんどそのリテラシーは変わらない、ということです。
これは私も実感していて、この前某有名大学の経済学教授の方と話したのですが、自分の専門は非常に詳しいんでしょうが、資産運用などの一般的な金融の話を私がすると全くの門外漢で、全然分かってないんですね(=経済学者であっても経済学の一部のはずの金融リテラシーは低い)。
専門家は、自分の専門以外は「ただのおじさん、おばさん」と変わらない場合が多いのです。