見出し画像

すべては知覚から始まる:ヒューム著「人性論」

受講中の講義の課題図書『人性論』。今回は「第一編 知性について」。

『人論』(人生論ではない)を著したのは、デイヴィッド・ヒューム(1711ー1776)というスコットランド人で、ルソー(1712−1778)やカント(1724−1804)にも大きな影響を与えたという、哲学者。

確かにカントの「物自体」という主観客観問題とは違った独特の主観客観問題を設定しているのですが、個人的にはヒュームの考え方の方が説得力があるように感じます。

私たちは誰しも、自分の持っている感覚器官を通じてしか、物事を捉えることはできません。本当の事実はわからないのです。わかるのは「私にとっての事実」だけ。

なので本当に目の前に「ペン」があるかどうかは、わかりません。わかるのは私にとって目の前に「ペンがある」ということだけ。

自分の感覚器官というフィルターを通してしか、私たちは物事を認識することはできないのですから。このことをどう考えるのか?というのが認識論ですが、ヒュームの場合は、

「どうせ本当のところはわからないんだから、それでいいじゃない。私たちが感覚器官を通して認識したという前提で物事を考えればよいではないですか」

という感じです。

なので「すべては自分が経験した知覚をベースにすべての物事を考えていくしかない」としたのです。

心という狭い限界内に現れた知覚以外には、いかなる種類の存在も思いいだくことはできないのである。これが想像にとっての宇宙であり、そこに作り出される物を除いて、いかなる観念も持たないのである。

本書第一編第二部第六節

懐疑論者として有名なヒュームですが、こうやってヒュームのように真面目に丁寧に物事を考えていけば、確かにこの世に絶対はない、ということに気付かされます。

そもそも人間は自分の感覚したものだけしか認識できないわけだし。。。


それでも私たちは、生きていく上で何らかの自分たちなりの根拠をもって生活しています。

「この場合はこうしよう。あの場合はこうしよう」

というふうにです。それでは私たちは何を根拠にああしよう、こうしようと判断しているのでしょうか?

それは私たちが生まれて経験してきたあらゆる世の中の因果関係のパターン(必然的結合に基づく習慣)を習得してきたからです。もちろんこれらのパターンも絶対ではありませんが「雨が降ったら傘をさす」の場合、

「雨が降る」→「体が濡れる」→「不快だ」→「傘をさせばおおよそは濡れなくなる」

というように「傘をさせば濡れなくていい」という成功体験を子供の頃に経験することで、雨が降りそうな日は傘をあらかじめもって行き「雨が降れば傘をさす」という行動パターンを身につけるのです。

このような成功体験を生きていく中で何度も体験することで、私たちはより快適に生きられるよう、より真っ当に判断できるよう、賢くなっていきます。

ただし、この因果関係のパターンは、どこまでいっても絶対ではありません。あくまでも何度も経験して、他の人の経験も聞いて、どんどん確度が上がっていくわけですが、そこまでいっても絶対はない。なぜなら絶対となる根拠は私たちにはわからないからです。

なので、我々は常に積極的柔軟性をもって、判断の根拠となる考え方を柔軟に変えていくという姿勢が大事です。

ヒュームは「こうなったらこうしよう」という心の動きのことを「信念」と呼んで、ここに人間の生き生きとした感情が湧き出す、と言っています。

確かに自分の目の前に何かやりたいこと(「やらねばならぬこと」でも良い)ができた時に「こうしよう、ああしよう」とジャッジしていくことは、何かしらのポジティブな感情が主体となってそのように意志し判断していく、というのはわかるような気もします。

大分県白水ダム(2022年9月撮影)

以上、あくまで何度も経験したこと、あるいは他の人が経験したその結果をもって、我々は生きていく上でのあらゆる判断基準(=価値観)を内面化しているわけで、そうやって人間は生きてますよね、

と本書で紹介したのがヒュームなのです。


ヒューム曰く

原因と結果に関するすべての推論は習慣にのみ起因すること、また、信念はわれわれの本性の知的部分の働きというよりもむしろ情動的部分の働きであること

本書第一編第四部第一節

*写真:阿蘇山 草千里(2022年9月撮影)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?