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言語ゲームとは何か?「はじめての言語ゲーム」書評

<概要>
哲学者ウィトゲンシュタインの伝記を綴りながら彼の主要テーマである「言語ゲーム」の発想の背景とその内容を紹介した上で、キリスト教・仏教・国学などの思想における言語ゲームの具体的活用方法を例示した著作。

<コメント>
著者の場合「言語ゲームとは、規則(ルール)に従った、人々のふるまい」と定義しています。

ヴィトゲンシュタインは当初「写像理論(picture theory)と言って世界(出来事の集まり)と言語(文章の集まり)は、ピッタリ、ワントゥーワンで対応していると考えていました。世界は全て言語で表現されているというわけです。

だから自分が使っている言語の範囲が自分自身の世界の範囲、全ての出来事は全て言語となって自分の世界を形作っている、そんなイメージを持っていました。

ヴィトゲンシュタイン曰く「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」

そして、言語と世界の関係をさらに深堀り。

その後、言語と世界は無限に変容することに気づき、世界と言語が1対1で対応しているというよりも、コミュニケーション(一人遊び含む)の単位ごとに世界と言語が連関し合いながら生成されていると考えました。したがって言語の意味は特定できず、その単位ごとに共有する意味が生成していく、という感じです。

これを言語ゲームと称したわけです。

言語ゲームを展開すると、なんとなくそのコミュニケーションのかたまりごとに独立して、阿吽の呼吸で、言語を媒介に何かしらの表現やその意味が共有されます。著者はこれを「ふるまい」と表現しています。

そしてさらにこの考え方を推し進め、言語を使わない場合でも、例えばボディランゲージでも一人遊びでも人間の営みは、なんらかのルールに基づいてなされる=言語ゲームとして解釈できると考えました。

我々は無意識に、家族同士で話す場合、仕事仲間で話す場合、趣味の仲間で話す場合、あるいはペットとコミュニケーションする場合、皆そのコミュニケーションの単位=社会ごとに言葉や態度を使い分けています。

ちょっと内省してみれば、話している言葉は同じ日本語でも、それぞれの社会ごとに言葉遣いやその概念、話す領域が異なっていていることに気づくはずです。そして何かしらの同じような価値観や規範を共有しています(ペットとの間であっても)。そして、これから外れると同調圧力を伴って「あの人変わった人だね」と言われてしまいます(ペットからそっぽを向かれる)。

それでは宗教や学問という言語ゲームの単位は、どのような言語ゲームによって世界観が構築されているのか、見てみましょう、というのが事例として紹介されています。

中でも面白かったのは、キリスト教と儒教の構図が似ていること。

ルターや伊藤仁斎・荻生徂徠は、西欧・中国大陸それぞれの中世の既存組織(教皇庁&宋)の大義名分としての解釈=スコラ哲学&朱子学から、原点に立ち戻ろうとする構図(下図は本書より)。

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最初に原典があって、そのあと、その時代の社会の権力構図にマッチするよう変容し、更に権力構図から独立した形としてのルターや仁斎・徂徠がオリジナルに戻るという流れです。

つまり、同じ「書き言葉=原典」を使っていても、その時代・その地域ごとの言語ゲームが展開されているところが、面白い。時代に合わせて原典の解釈も変わっていくわけです。

*写真:2014年 岐阜県 長良川の鵜飼
鵜匠とウミウの間で取り交わされるコミュニケーションも、一種の人間と動物との間の言語ゲームといえるかもしれない。

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