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宮本常一『忘れられた日本人』を読む 網野善彦著 書評

<概要>

宮本常一著『忘れられた日本人』を題材に、主に「老人・女性・子供・遍歴」&「東日本と西日本の差異」について、著者の説を加味しつつ紹介した講演録。

<コメント>

著者は、神奈川女子短期大学時代に、10年間本書をテキストにして講義していたというのですから、最も『忘れられた日本人(宮本常一著)』を読み込んだ人と言えるかもしれません。

本書は主に以下4つの問題について本書内容の紹介とともに著者オリジナルの見解を加味しています。

⑴昔の日本女性は、経済的に自立し女子旅もしていた

ここでいう昔とは、古代から近世にかけてのこと。当時の日本女性は、結論的には公にはほとんど登場しないものの、それなりに家庭内で権力を持ち、経済的に自立し、単独行動もしていた、というのが著者の仮説。

経済的には、日本は7世紀以前から織物やその前提としての養蚕や綿摘み、麻の繊維を績む「苧績」の仕事は、女性の仕事であり自ら市場に持ち込んで換金し、その収入は女性自身のものとして財産権を認められていたらしい。

夫の収入であっても一家の財布は全て女性が握っており、出納簿をつけて消して男には財布は渡さなかったと言います。

『忘られた日本人』でも宮本常一の故郷「周防大島」のことが描かれており、同じように女性は財布の紐を握っていたという事例を紹介。これは現代の妻も同じかもしれません。

今のように治安が良くなかった歴史上の日本において「女子旅が本当にできたのであろうか」と不思議ですが、お遍路さんのように白装束でそれなりの巡礼の旅を装っていれば、追い剥ぎに遭うこともなかったと言いますから、お遍路を襲うと祟りがあると信じられていたからかもしれません。

⑵「夜這い」は、男女同権

『忘れられた日本人』書評でも紹介した「夜這い」。やはりこの風習は一般的らしく、女性はもちろん拒否する権利もあったので、単なる男のお仕掛けではなかったらしい。男性に夜這いにこられて女性が拒否する方法が面白い。

『河内国滝畑熊太郎旧事談』では夜這いに儀礼があり、拒否をしたい女性は親を起こしてあかりをつけることはいっこうにかまわないのですが、それを無理して入り込もうとする男性は、若者組の中で制裁をくらい、打擲されたと言われています。

本書79頁

一方で合意に基づく夜這いに娘の親が妨害した場合、

逆にかたい親が戸を閉めて入れないようにすると、若者たちが暴れまくって親の方が糾弾されてしまうということにもなっている

本書80頁

ということ。ただし夜這いは明治時代以降、男性中心の近代的な法体系が浸透し、警察が交番の形で隅々まで監視するシステムによって徐々に「夜這い」という習俗は衰退。

佐近熊太さんは、これをやめさせたのは交番であり、巡査が厳しく取り締まるようになってきたため、明治以降、こういう儀礼も夜這いも無くなっていったと言われています。

本書80頁

なお、夜這いについては、日本社会には「縁」が「つながる」「切れる」という考え方があり「祭り」「市場」や「夜這い」は縁が切れて自由になる「非日常の世界観」。現代の無礼講的な概念も、このような歴史底な背景があるのかもしれません。

中世の史料などによっても、市場や祭りのときは、世俗の縁がきれ、男女の関係も極めて自由な場になったことがいろいろな場面から明らかにされつつありますが、それが江戸時代を超えてごく最近まで生きていたという事実を私は『忘れられた日本人』ではじめて知ったのです。

本書70頁

⑶西日本人と東日本人の違い

宮本常一の西日本と東日本の違いの仮説も、さまざまな領域でその違いが明確になっているらしい。東西の違いはフォッサマグナが境界線で、具体的には、

私は三河・信濃、能登以東が東国、尾張、美濃、加賀以西が西国であり、それを基盤に東と西に二つの国家、二つの王権があったと言ってよいと思います。

本書157頁

①遺伝的な違い

*東日本人=縄文人系でアイヌや沖縄、被差別部落民と同じルーツ
*西日本人=朝鮮半島人と同じルーツ。

遺伝学的には西日本人と朝鮮半島人の遺伝的な違いよりも、東日本人と西日本人の違いの方が大きいらしい(小浜甚次、植原和郎の説)。

西日本に被差別部落が多く、東に少ない(山形の「ラク」など、一部ある)というのは、被差別部落民は東日本人と同じルーツだから。西日本人からすれば、狩猟民族である東日本人は、獣を殺す=血を扱う穢れた民族→差別、という認識だったのでしょう。

つまりこれまで差別や宗教の根拠たる日本人固有の「穢れ忌避の概念」は、主に西日本の習俗に基づくものだったということか。この辺りはもうちょっと勉強が必要。

②西の天皇=聖、東の将軍=俗

西の王権たる天皇は、神話につながる聖なる権力者で、神の子孫たる権威を持った権力。つまりインカやアフリカなど、政教一致の神聖王に近い存在。

一方の東の将軍は、西欧的な王権で、俗世間のトップとしての権力者。武家の棟梁という存在だから、だいぶ西とは違います。

ちなみに今の日本は、聖なる権威(天皇)と俗なる権力(国民→首相)を分離した状態という感じか。

⑷「百姓」には農業以外の職種もふくまれる

著者の分類では、穀物栽培農民を農民と定義し、穀物栽培以外の農民は農民ではない、みたいな解釈なので、ちょっと分かりにくいのですが、士農工商でいう「農」というのは農村に住む住民を称して「百姓」=「農」としたので、この中には畑作民も入れば商人も職人もいた、というのを強調しています。

そして農民自体、副業当たり前の兼業農家で、農作業すると同時に漁をし、機織りし、大工をし、炭を焼き、廻船して商いをしていたらしい。

香月与一郎曰く「百姓は、総合商社みたいなもの」

実際、中世でも穀物を徴税する割合は40%ぐらいだったらしい。でも半分弱は穀物なんだから穀物が税の主だったことには違いないとは思います。

*写真:千葉県香取市「水郷佐原あやめパーク」(2022年6月撮影)

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