見出し画像

人間の本性を考える(上巻)スティーブン・ピンカー著 書評

<概要>
副題の[心は「空白の石板(ブランク・スレート)」か]との問いに対し「違います」とし、進化生物学や脳科学の成果に基づいて、心の先天性の問題について解説した著作。

上巻の内容は、なぜブランク・スレートが主要な学説になったのかについて整理する一方、進化論に端を発した学問&脳科学の「文化」に関連する学説の紹介、及びこの新しい理論を批判するラディカルサイエンスの主張への論駁。

<コメント>
本書出版当時(2002年)のアメリカ学術界は、まだまだ人間は皆、ブランク・スレートだから、人種・性別・出生地・血縁などに関係なく、環境や教育の改善によっていかようにもなる、という考え方が主流だったようです。

著者ピンカーによれば、以下三つの考え方が、ブランクスレート含む人間の心は「育ちによって決定する」という考え方を支えてきたといいます。

◼️ブランク・スレート=空白の石板(経験論)
この考え方は、イギリスの哲学者ジョン・ロックが、ヨーロッパ中世キリスト教的思考、つまり人間は神の創造物だから生まれつき神の概念や数学的理念を持っている。だから教会の権威や国王の神聖な権利は自明なもの、というこれまでの考え方に抗って誕生。

社会機構は一から論理的に考えられるべきであり、誰でも得られる知識にもとづいた合意によって承認されるべきとしました。個々人は、育ち、つまり経験によって全て考え方が変わってくるのは当然なので、異なる考え方は抑圧されるべきでなく尊重すべきとしました。

なのでトップダウン的な中世の考え方ではなく、ボトムアップ的考え方の根拠となるのが経験論=ブランク・スレートなのです。

◼️高貴な野蛮人(ロマン主義)
高貴な野蛮人とは、ジャン・ジャック・ルソーの唱えた自然状態の概念から著者ピンカーが揶揄した表現。ヨーロッパにとっての新世界に住む先住民をみつつ、自然状態の人間は無私無欲で温和で、心安らかな存在であり、貪欲さや不安や暴力といった荒廃は文明の産物だとした考え方

だからこそ、教育によってちゃんと育てれば人間はいかようにもなるという、ブランク・スレートに近い考え方になっています。

◼️機械の中の幽霊(心身二元論)
人間の身体は空っぽで、精神が身体に宿ってはじめて機能するという考え方。もともとデカルトの心身二元論からこの考え方が主流になり、「機械」が身体で幽霊が「精神」と表現を変えて、またもやピンカーが揶揄。

デカルト自身は、身体は身体自身から発するさまざまな諸感覚や情動が、精神=私の理性的働きとは関係なく外からやってくるという意味において、精神と身体は別物、というような認識をしていたようですが、「機械の中の幽霊」では、機械は空っぽ=ブランク・スレートで、育ちによって精神=幽霊を植えつけていけば良い、という、これもブランク・スレートに近い考え方になっています。

以上、人間は皆ブランク・スレートだから、分け隔てなく平等に機会を与えてあげれば、それぞれ能力を発揮する、という啓蒙主義の根拠となる考え方だったのです。

ところが著者ピンカーはこれに反論し、先天的特性=遺伝子に基づく人間の本性は、自然科学的思考の結果、明らかになりつつあるとし、これらブランク・スレート思考を闇に葬るためのあらゆる論理を展開!!という感じです。

ピンカーの貢献もあってか、既に今はマット・リドレー著作紹介の進化論に基づく各種仮説や行動遺伝学の成果によって、ブランク・スレートの考え方は既に過去のものになったように感じます。


一方で当時としては、進化論に基づいた考え方は、一見、生まれによって既に人の能力は決まっているという決定論的考え方を生む要因にもなっており、これはナチスドイツの優生学に基づく人種差別の根拠にもなりうるという危険を孕んでいたので、著者ピンカーは、決して人種差別的な考え方ではなく、進化論的考え方に基づく啓蒙主義の方向性を、中巻・下巻で展開しようとしています。

前著「言語が生み出す本能」でも「言語は人間の本能」と指摘したように、本来的に本能によって個性や考え方が影響されるのは間違いない。

世界中にはあらゆる文化が存在していますし、75億人生きている人間も、75億通りの人間の個性がありますが、一方で遺伝子の特質によって、何らかの普遍的な傾向値も個人の特性も双方が影響されていると考えるようになったのは、2020年に生きる我々。

個人的には、たった20年経っただけで、こんなにも世界の常識が自然科学の成果によって変わってしまう方が逆に驚きでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?