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「哲学は対話する」西研著:天皇制というコミュニタリアニズム

天皇制は「ハーバード白熱教室」で有名なサンデル教授など、コミュニタリアンの主張に寄り添った「共通善」に基づく政治思想であり、これら天皇制含む共同体の物語(※)は近代市民社会の原理(近代的正義)共存できるのでしょうか?

※共同体の物語=歴史とともに生成してきた具体的な価値観

コミュニタリアニズムについて「哲学は対話する」では

社会の正義は歴史の中で生成してきたコミュニティが具体的な「善」と認めるもの(共通善)であるべきであり、歴史と具体性とを欠いた個々人の権利は抽象物に過ぎず、正義の根拠とはいえない。
なぜ自由の権利が抽象的かといえば、それは個人から「属性」を完全に排除するからである。権利という観点に立つとき、性別はもとより、出自、宗教、文化などの一切を排除して、個人の自由を尊重することになる。

と紹介。

今に至る天皇制は、明治維新政府が、近代国家「日本」という概念の統一性を担保するため日本古代から復活し変容させた、ナショナルアイデンティティとしての「共同体の物語」。

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個人的にこのテーマには非常に関心があって、実は某オープンカレッジで竹田青嗣先生に近代的正義とナショナルアイデンティティの関係について直接質問したところ「ナショナルアイデンティティは、それほど深くコミットする必要がないのでは」とさらっと答えられてしまったのですが、私自身は日本人(ユダヤ人など独自の歴史性を育んでいる集団なども)にとっては、とても重要な問題ではないかと思っているのです。

共同体の物語は、一つの価値観に染まることを意味し、その価値観以外の物語の許容は本来困難です。

しかしカトリックでは、1965年の第2バチカン公会議での「諸宗教対話(※)」にみられるように、そして今まさにローマ教皇がイラク訪問してイスラム教指導者と対話しているように、他宗教との共存と交流を積極的に推奨しています(消極的ではないところがポイント)。

※諸宗教対話=仏教、ヒンズー教、イスラム、ユダヤ教など他宗教(プロテスタント含む)について、カトリック教会がそれぞれの宗教の中にもある真理を受け入れ、お互いを尊重し合う精神を謳った対話

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そんな問題意識を持つ中、西研も本著作にて、共同体の物語と近代的正義は根本的に対立するものではないと主張しています。

議論によって「みんなにとって良いこと」(一般意志)を取り出してルールを作っていこうとする民主主義は、当然のことだが、このような互いの想いを受け止め合おうとする「対話の関係」によって本来勧められるべきものである。

そして

対話の関係によって他者の視点を実感的に捉えることは、共振性の体験であるだけでなく、自分を「共に生きているみんなの中のひとり」として捉えること、つまり、自分の生と他者の生とを公平に見る俯瞰的な視野を獲得することでもある。
俯瞰的で一般的な視野の獲得は人間の生の条件の多様性を知ることにつながるだけでなく、自分自身の物語(価値観)をより元気の出るものへと形作っていくことにもつながる

つまり、近代的正義は、多様な価値観同士が対話することによって、それぞれの価値観をより良き方向へアップデートしていくものとして、結論づけているわけです。本当にそうだなと納得。

別途、現在通読中の「現代哲学の最前線仲正昌樹著)」によれば、「正義論」で有名な哲学者ロールズもこれに近いことを主張しています。それはサンデルなどのコミュニタリアンからの反論への回答として、

探求の焦点を財の再分配から多文化社会における正義へと移していく(47頁)

とし「政治的リベラリズム(1993年)」を発刊。この中で共同体の物語(ロールズは「包括的教説」と表現)と近代的正義(同「公共的理性」と表現)は、「重なり合う合意」として共存可能、としています。

西研によれば、日本人にとって天皇制という共同善は、日本人の数ある物語の一つとして受容され、より良き方向にアップデートしていくことが可能、ということになります。

少数とはいえ天皇制に反対している日本人もいる中、やはり共同善は、近代的正義の枠組みの中の一つの物語として他の共同体の物語と共存していく、ということ。日本人だからといって天皇制を強制するのではなく、お互いの立ち位置(価値観や信じる物語)から対話して、より良き物語へと昇華させていきましょう、という感じか。

私の意見としては「特定の共同体の物語」に固執せず、キリスト教徒でありつつ政治的には天皇制受容みたいな、複数の物語を一人の人間の中で共存させていてもいいのでは、と思ってます。というかほとんどの日本人は、毎日の生活にドップリで深い信念をもって生活しているわけもなく、一つの人格の中で厳密にロジックを整合させる必要があるのかどうかさえ疑問です(私自身は必要ですが)。

そういう意味では、天皇制反対の人も受容する近代的正義を優位にしつつ、戦後憲法の「象徴天皇制」という概念は見事な落とし所だったんだなと、今更ながら感心してしまいます。

*写真:2020年 栃木県 日光東照宮。(ルールを守れば)何でも受容する近代的正義の象徴かも?

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