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日本列島百万年史 「関東編」

◼️関東平野はなぜ日本最大の平野なのか
徳川家康が秀吉の命令で江戸に来るまで、関東平野、特に江戸の辺りは大湿地帯で洪水も多く、人の住めるような環境ではありませんでした。街道も、相模国(神奈川県)から東京湾を渡って上総に入るルートが昔のルートで、だから今の千葉県も上総→下総という順に日本の中心だった関西からみれば、このような順番になっていたのです。

ところが家康がこの広大な大湿地帯の開拓に成功して以降、日本の第二の中心となり、明治時代以降は、日本の首都となって、今は日本の人口の3分の1(4,300万人)が住む平野となりました。

日本の平野は、一般的に活断層のずれた凹みに土砂が堆積して形成されたものがほとんどですが、

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関東平野は「前弧海盆」が陸化した特殊な平野

「前弧海盆」は本書掲載の下図の通り、普通は海の中なんですが、関東平野の場合は「伊豆バー」と称する「伊豆半島から伊豆諸島に連なる火山帯」が北上し続けているため、関東平野も北に引っ張られて移動し、ここに土砂が溜まって平野となったのです。

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もともと前弧海盆なので、太平洋(海洋)プレートに引っ張られてどんどん沈降(関東造盆地運動)し、ここに関東平野の殆どの川が東京湾に流れ込んでいました(=大湿地帯形成)。

ところが徳川幕府は、関東平野の開拓と合わせて東京湾に流れ込んでいた利根川を家康から家光まで3代かけて、銚子へ流すよう河川を付け替え(利根川東遷)、洪水の多い大湿地帯を人間の住める土地に改変。

そのあと、徳川幕府が明治政府に変わって以降も「荒川放水路(荒川)」「江戸川放水路(江戸川)」など、巨大な人口河川(=放水路)を掘削し、人が住みやすい環境に作り替えてきました。東西線に乗って大手町から西船橋まで行けば、人間の掘った二つの放水路が体験できます。どちらも河岸が真っ直ぐになっていて「人工的」だというのがよくわかります。

◼️武蔵野台地と東京低地
大都市のお城は、防衛上ほとんどが台地の先端に位置し「大阪城=上町台地」「名古屋城=熱田台地「金沢城=小立野台地」、そして江戸城は下図の「淀橋台」と呼ばれる「武蔵野台地」の東端。

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江戸城に連なる台地周辺が「山の手」で武家屋敷が多く位置し、江戸時代のこの辺りの喋る言葉(口語)をべースに今の我々が使う日本語が明治から大正にかけて人工的に作られたらしい(「単一民族神話の起源」小熊英二著より)。

下町」は、下図の通り武蔵野台地に隣接する東京低地で、上野方面から日本橋方面まで見事に「下町」です。下町含む東京低地は、いわゆる沖積平野で、新しい地層。したがって地盤は緩く、地下水汲み取りで沈下し、いつも地震や豪雨で大災害になるのはこのエリア。

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そして武蔵野台地と東京低地の境のあるのが「」で「赤坂」「富士見坂」「乃木坂」となり、武蔵野台地のそれぞれに「目白台」「駿河台」「高輪台」「白金台」と名がつけられ、その谷間は「四谷」「渋谷」、窪地は「大久保」と、地名でその場所の地形が分かるのが面白い。

このように関東平野の成り立ちにまつわる武蔵野台地と東京低地の「地形の複雑さ」が、今の江戸・東京を生んだというわけです。

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(靖国神社も九段坂を登った台地の上にありますね)

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