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「哲学の誕生ーソクラテスとは何者か」納富信留著 書評

<概要>
ソクラテスの生きた時代は、ソクラテス・プラトンだけが突出していたのではなく、同時代に生きる思想家たちの大きな潮流の一環としての位置付けとして再認識すべきとして紹介しつつ、後代における主にソクラテス思想の受容の仕方を紹介した著作。

<コメント>
中盤は考証学みたいで「史実的・文言的に何が正しくて何が誤っているかの検証」は、専門家に任せておけばいい内容で、我々のような素人にとっては正直言ってあまり面白くないのではと思いますが、「無知の知」など、終盤の日本における誤ったソクラテス理解については大変興味深く読めました。

いつものように、以下印象深い内容をメモる。

■対話による展開について

プラトン著作は、対話によってソクラテスと他者を対比させてその哲学の真髄を紹介しましたが、このような手法はプラトンが創始者というわけではなく、当時は「ソクラテス文学」という一つのジャンルとして多数の対話形式の文献があったらしい。

ただ今に残っているのは、プラトンとクセノフォン(クセノポン)の著作だけだということと、後世のキケロなどの各種対話篇含めてプラトンの文学的価値が突出しているので、そのように誤解してしまうのではないかという著者の弁。

■魂は永遠不滅

ソクラテス・プラトンの思想に一つとして、本来善であるピュアな魂は不死であって、(俗的な欲望の根源たる)肉体によってその発現が阻害されているので、肉体から離れた状態の魂(=肉体の死)は理想的な状態だという考え方がありますが、これも彼らオリジナルではなく、ピュタゴラス派やオルフェウス教によって伝えられたオリエントの宗教をルーツとする考え方だそう。

本来、古代ギリシア人が信じていたギリシア神話では死んだ人間の魂は肉体から離れてハデス(ゼウスの兄)とペルセポネ(ゼウスの娘)の支配する「冥府」に行くことになっています。そういう意味では東洋的な「輪廻転生」の考え方は古代ギリシア人らしからぬ考え方。

■「無知の知」という誤った解釈と日本語訳

本来「無知の知」と呼ばれているものは、正確には「不知の自覚」だといいます。プラトン著作の対話編では「ソクラテスの弁明」の中で

どうやら、何かそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で

との通り、「無知」というステータスを知っているのではなく「単純に自分が知らないことを正直に知らない、として自覚しているだけである」というのが実際の翻訳とその意味であって、解釈はだいぶ違います。そして「何も知らない」と言っているのではなく「真善美のみ」を対象に「知らない」と言っているのです。

以上、翻訳者らしく考証学的研究による、正しい古代ギリシア哲学への理解を訴えようとする著者の姿勢がよく現れた著作。

最後に

哲学はいつ始まったのか?最初の哲学者は、ソクラテス(あるいはタレスやピュタゴラス)というよりも、彼と対話し、その記憶から今、哲学を始める私たち自身でなければならない。哲学は、つねに、今始まる。

という著者の言葉が印象的でした。哲学は「自分ごと」として始めない限り、始まらないのです。

*写真:2012年サントリーニ島「カナベス・イア」より

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