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プラトン解釈の類型 西研著「哲学は対話する」

プラトン勉強にあたって、西研最新の大作「哲学は対話する」通読中。

西研哲学は、竹田青嗣哲学と近いので「哲学的思考」はじめ、何冊か過去に読んでいます。本書は2019年に出版された最新作で結構なボリュームの大作です。いずれ全体も展開したいと思いますが、まずはプラトン関連について。

本書の第1部で、哲学対話の先例としてソクラテス・プラトンを紹介。プラトン著作は、対話による著作がメインなので、ルーツオブ哲学対話たるプラトンの思想「魂の世話」について扱っています。

その前に著者の主張する哲学の概要について、以下紹介。竹田青嗣の哲学に深く納得している自分としては、全く同感です。

1.哲学は「根源的真理を問うもの」ではなく、「根源的真理をめざす悪しき哲学(形而上学)を解体しようとするもの」でもない。哲学の最大の課題は、ものごとの「よさ」(なぜよいのか・どういう点でよいのか)を問うことにある。(哲学の課題)
2.そうすることで、一人ひとりの生き方と、社会のあり方とを「よりよき」ものにしようと配慮することが、哲学の目的である。(哲学の目的)
3.哲学は、人それぞれの答えしか出ないものではない。適切な問い方をすることで、人びとが納得しうる答え(共通了解)をつくっていくことが可能である。(哲学の方法)

■ソクラテス・プラトンの限界について

上記引用の考え方の端緒は「ソクラテス・プラトンにはじまる」としていますが、竹田青嗣と大きく違うのは、ちゃんと彼らの限界にも言及していること。この時代(2400年前!!)にここまで哲学しているのだから、十分かとは思いますが、それでも非は非として明確にしておくことも確かに必要かもしれません。

具体的にいえば、やはり「プラトニズム=真実在たるイデア界の実在」。ただし、イデアを掴むための思考方法については、まさに「物事のよさ」を問う思考方法であり、著者曰くの共通了解に向けた道筋であるとしています。私自身プラトン著作を読んだ感じでは、そこまでプラトニズムの匂いは感じませんでした。やはり竹田青嗣的解釈を踏まえてプラトン著作を読んでしまうので、そのバイアスがかかったのかもしれません。

また、国家における哲人政治についても批判的で、プラトン哲学の愛知の目的は、エリートたる権力者育成のための手段に過ぎなかったのではないか、という疑いも拭いきれない、としています。とはいえ、この時代は、奴隷労働前提に自由な市民の生活が成り立っていたうえに、英雄ペリクレスなき後の劣化著しいアテネにおいて、アテネ復活のための絶対支配者育成、というプラトンの切実な願いなどに配慮すれば、致し方ないでしょう。

■哲学対話について

プラトン著作の中で、ソクラテスは「共通了解」に向けた哲学対話の心構えを述べています。

私は反駁を受けることは少しも不愉快にならない。なぜなら、それは「最大の害悪」である過ちから解放されることだからだ。

西研は、共通了解に向けての哲学対話は、ふつうの人間の感受性に逆らうことによってのみ獲得されるとして、一般的に対話は「上下関係」「年齢」「集団の空気感」などに支配され、ピュアに自分の思うところを言いにくいですし、言ったとしても否定されれば不愉快になります(ソクラテスのようにはいかない)。特に同調圧力に抗って、自分の思うところを主張するのは本当に困難なこと。

そういった困難を乗り越えるための現実的解決策として、ソクラテスのような相手に嫌われそうな対話ではなく、

①お互いの体験談などの交換を通じて相手をリスペクトしつつ和やかな雰囲気を作る
②お互いの体験談を通じて他者がどのような生き方の了解をしているのか、を相互に確かめ合う

などの方法を著者が提案。

私の理解では、何らかのテーマについて共通の「WHAT」を問うのではなく共通の「HOW」を問うことによって共通了解に向けた道筋が開けるように感じます。本書では「勇気」を題材にしていますが、「勇気」とは何か?をお互いに主張するのではなく、「勇気」はどのようなシチュエーションで起こる言動や行動なのか、お互いの体験談を通じて、その勇気発生の共通構造を問うようなイメージです。

そうやって、ソクラテス・プラトンの哲学対話を今風に応用していけば、きっと「よきこと」についての対話が深まり、対話のプロセスそのものによって、人間一般の生についての了解を深めることができるとしています。

■善のイデアについて

他の解釈とちょっと違うなと感じたのは、「善のイデア」の「善」という概念について。善というとどうしても道徳的な「善きこと」をイメージしてしまいますが、

ここで「善」と訳されているのは「アガトス」であって、道徳的な善に限らず、気持ちいい、役立つ、美しい、など「よさ」一般を広く示す言葉である。「善のイデア」という言い方で広く知られているが、「よさのイデア」と理解すべきものであることを理解しよう。

とのごとく「肯定的な価値全て」を「善」としています。このように「善のイデア」を捉えれば確かによりわかりやすくなります。我々は自分の欲望と関心に応じた価値観(よさ⇄わるさ軸)によって自分の世界を生成しているわけで、プラトン曰くの「善のイデア」こそが理性によって対象を対象たらしめているものの本質を見極める環境を提供している、という言いようも、よりわかりやすくなります。

■愛知(=フィロソフィー=哲学)とは

①愛知とは、対話を通じて、各人が自分の中のあいまいにわかっている(あるいはあいまいにしかわかっていない)ことを明確化していきながら、「なぜそれがよいことなのか」の根拠をはっきり掴むことである。
②そうすることで、知は「よしあしを深く判断し、これに基づいて魂の諸能力や諸資源を導く力」となる。これこそが霊感や個人的信念に導かれるのではない「徳」である。
③したがって愛知とは、そのような「知である徳」を育成しようとする営みである。

哲学するとは、イコール知を愛するということなので、何らかの前提(神や権威・神話など)をおかずに対話を通じて、曖昧にわかっていることを明確にしていくこと

ここでいう「知」とは「物事が真に良いものかよくないものかを判定しうる「知」のこと。そして徳(ギリシャ哲学では道徳的徳ではない)はアレテー=卓越性・有能性だから「愛知」とは「物事の良し悪しを判定する卓越した知性を育成しようとする営み」となります。ここでもプラトン哲学は「世の中の原理」や「真理」とは何か?ということではなく、あらゆる事象に関する「真っ当な価値判定」のことを指しているのです。

■エロスについて

人は何を求めて生きているのか」という問いとともにエロス論が展開されます。 以下「饗宴」の書評にて言及した通り、

幸福になるために、普遍的な「美しきもの」や「よきもの」を対象に永遠に自分のものにしたいという「心のベクトル」=欲求そのものがエロス。

これに加え「エロスは恋愛の欲望が名誉と不死への欲望に通じる」という点にも注目。

名誉」については19世紀初頭の哲学者ヘーゲルの、他者に認められたいという承認欲求(恋愛も同じ)の端緒となったとし、「不死」=連続性への欲望は、20世紀の哲学者ハイデガーの「人は時間性を生きる存在」につながっているといいます。

「人は時間制を生きる存在」とは著者によれば

〈これまで~してきた私は、これから…しようとして(…でありたいという可能性を求めて)、いま─している〉という時間的な人生の了解(ないし時間的な物語)を形づくりながら人は生きている、

といい、我々は現在・過去・未来の時間軸の中で自分の存在を認識しているという、この「感じ」はなんとなくわかるような気がします。

以上、プラトンは学べば学ぶほどその深さと広さに驚かれる思想。

「後世の哲学は既にプラトンを主としたギリシア哲学の中の類型の一つとして展開されている」という誰かさんの主張も改めて認識させる読後感でした。

*写真:2021年 香取市 佐原にて

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