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意志と表象としての世界<3> ショーペンハウアー著 書評

第3巻は、ショーペンハウアーのペシミストとしての哲学全開といった感じで「この世は苦悩と退屈に満ちている」ということになります。

それでも、その言い回しは機知に富んでいて読者を飽きさせません。

例えば「幸福(=何かの願望の満足:第58節)」は人間に訪れないのかといったらそうではない。訪れるのですが、

「直にわれわれに与えられているものは、いつもただ欠乏、すなわち苦痛だけでしかなく、満足もしくは享楽に至っては、それが始まると同時にもう終わってしまって少し前の苦しみや欠乏の思い出を通じて、かろうじて間接的に認識できるものでしかない(第58節)」

として、幸福が来たっと思ったらすぐに満足して退屈になってまた新しい願望を探して見つけてまた苦悩して一瞬の満足とともにすぐに退屈がやってきて・・・というように永遠に繰り返すので、幸福は一瞬=刹那的でその「ほとんどの人生は苦悩と退屈」ということ。

(心理学では満足してもすぐに退屈になってしまう現象のことを「ヘドニック・トレッドミル現象」というそうです)

「人間の人生は、まるで振り子のように苦悩と退屈の間を行ったり来たりして揺れている(第57節)」

「困窮が民衆にとって休みない鞭だとしたら、上流社会にとっての鞭は退屈であろう。中流市民の生活では困窮は6日間の週日が代表していて、退屈は日曜日が代表している(第57節)。

うーん、面白い表現。まるで今を風刺しているよう。労働ってそんなに辛いのでしょうか、という疑問はあるものの。。。

さらに追い討ちをかけて

「願い事は決して満たされないし、努力は水の泡になるし、希望は無慈悲に運命に踏み潰されるし、一生は全体としては不幸な誤算」

ここまで徹底していると、確かに人生をネガティブにみればこんな理屈になるな、と思わせてくれます。

そして意外にも、R・ドーキンスばりの遺伝子「本体論」が登場します。この時点(1819年)では遺伝子の存在はおろか、ダーウインの「種の起源」(1859年)でさえ、未発表の時代。ショーペンハウアーは遺伝子に相当する概念を「生きんとする意志」と措定し、以下のように論じます。

「自然もまた、その内奥にある本質は生きんとする意志そのものであって、全力をあげて人間や動物を繁殖へと駆り立てている。繁殖がすめば、自然は個体とともに目的に達してしまったことになるので、個体の死滅に全く無関心である。生きんとする意志としての自然にとって大切なのは、ただ種族の保存だけであり、個体などは自然にとってみれば数にも入らないからである(第60節)」

彼にとって、生きんとする意志=遺伝子は、ただ生きんとする盲目なる意志で自己保存と自己複製に向かって突き進み、人間含む生き物はその意思に翻弄されるだけ。だから生は苦悩であり退屈である。なぜなら人間の自由意志よりも先に自然の意志があるから。

[「生きんとする意志」はスピノザのコナトゥス概念(=自己を保存し繁栄させる努力)から影響を受けたらしいが、今後もうちょっと深掘りしたい]

R・ドーキンスであれば「人間の自由意志も遺伝子によるもの」となって、また違った展開になるでしょうが、一つのロジックとしては完結しています。

したがって、第3巻のイデアと芸術の考察がなければ、ショーペンハウアーの哲学は一貫して美しいロジック=虚構になっている。

そして最終的にはインド哲学とキリスト教の影響を受けて、現実の世界と解脱の世界像が現れるのです(詳細は<2>で説明)。

*インド哲学    :生は煩悩→解脱して涅槃の世界へ
*キリスト教    :生は原罪→イエス・キリストに救いを求めて天国へ
*ショーペンハウアー:生は苦悩と退屈→無私無欲の修行を経て恩寵の王国へ 

*写真:スイス連邦 ルツェルン市 カペル橋

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