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思想(哲学と宗教)

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価値観の学問そのものといって良い哲学、価値観そのものといってよい宗教を勉強する事で「価値観とは何か?」に迫りたいと思っています。
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2020年1月の記事一覧

はじめての哲学的思考 苫野一徳著 書評

「その奥義、あますところなく伝授します」というオビに始まる著作。 竹田青嗣先生の弟子の方の著作なので、竹田現象学=欲望論に基づいた、極めて簡明で実践的な哲学の本。宗教・科学・哲学の関係と違いにはじまり、哲学的思考を学ぶことによって解決できる世の中の問題が、こんなにあるんだなと実感できます。 今でもトップランクに入っている「WEBちくま」で紹介した記事を大幅修正の上、加筆した著作とのことです。 一般的な哲学書とは違って、あっという間に読めてしまいます。かといっていい加減に

カソリックとプロテスタントの教義の違い

以前の「不思議なキリスト教」の紹介でユダヤ教・イスラム教との決定的な違いとして「キリスト教には法がない」ということでしたが、 さてでは、キリスト教のカトリック(ローマの方)とプロテスタントの思想の大きな違いは何か?といったら、それは 「知性で神の存在を認識できるかできないか」 以下、平原卓先生の講義に基づく思想的観点からの整理です。 カソリックは、ドメニコ会の聖人トマス・アクィナスの考えに基づき、神は、神からの恩恵によって人間にもたらされた知性・理性によって神の存在を

「21世期の啓蒙」と人工知能

スティーブン・ピンカーも人工知能に対する懸念については「人工知能は進化しても人間は滅ぼさない」として、人工知能による「テクノペシミズム(悲観論)」には否定的。 「AIの暴走を危惧する第1の誤りは、知能とモチベーションを混同していること(21世紀の啓蒙下巻第19章)」と指摘。 「知能とは、ある目的を達成するため、新たな手段を考える能力のこと」と定義し、知能が高いことと「何かを欲すること=目的」は別物。 例えば、人間の知能は、ダーウインの自然淘汰の産物であって競争を生き抜く

21世期の啓蒙 下巻 スティーブン・ピンカー著 書評

下巻に至って啓蒙主義の理念に基づき、世界中の我々自身が普遍的な共通理解として啓蒙主義の理念を持つべきだなと確信させてくれる内容でした。 「暴力の人類史」を「20世紀の啓蒙」とすれば、本書はまさに現代人と近未来人に向けた「21世紀の啓蒙」です。間違いなくお金を出して時間をかけて読むに値する名著だし、全ての人に読んでもらいたい。そんな感動的な読後感でした。 社会の虚構としての近代市民社会の原理とほぼ同じ概念である「啓蒙主義の理念」が世界共通の虚構として、いかにこの世界を進歩さ

21世期の啓蒙 上巻 スティーブン・ピンカー著 書評

前著「暴力の人類史」の続編ともいうべき本書は、啓蒙主義の理念(=理性、科学、ヒューマニズム、進歩)がいかに世界人類を幸福に導いてきたか?をデータを駆使して証明。 ベストセラー「ファクトフルネス」に近い内容ですが、ピンカー氏の「暴力の人類史」の方が早くから科学的データ主義に基づいて現代のありようを証明していたのではないかと思います。幸福に向かう進歩に関しては多様な意見があると思いますが彼の場合は誰もがそうだと思わざるを得ない価値観なので非常に説得力があります。 進歩とは「死

ニール・パートと近代市民社会の原理

カナダのロックバンド、ラッシュ(rush)のドラマーにして作詞家のニール・パート氏が脳腫瘍で1月7日に死去。 ニールのご冥福をお祈りするとともに、ニールのアルバムに込めた近代市民社会の原理に想いを馳せました。 ニール・パート(Neil Peart:発音に近いのはピアートだが、日本でパートと呼ばれていることは本人も承知)は、多彩な打楽器と変拍子を自在に操るスーパーテクニシャンドラマーとして玄人筋には有名ですが、実は、ラッシュの叙情詩(作詞)をほぼ全て創作している吟遊詩人でも

意志と表象としての世界<3> ショーペンハウアー著 書評

第3巻は、ショーペンハウアーのペシミストとしての哲学全開といった感じで「この世は苦悩と退屈に満ちている」ということになります。 それでも、その言い回しは機知に富んでいて読者を飽きさせません。 例えば「幸福(=何かの願望の満足:第58節)」は人間に訪れないのかといったらそうではない。訪れるのですが、 「直にわれわれに与えられているものは、いつもただ欠乏、すなわち苦痛だけでしかなく、満足もしくは享楽に至っては、それが始まると同時にもう終わってしまって少し前の苦しみや欠乏の思

意志と表象としての世界<1>ショーペンハウアー著 書評

ニーチェやワーグナーに大きな影響を与えたショーペンハウアーの代表的著作。最初の鎌田康男氏の当時の時代背景の解説や彼の簡単な一生の紹介があってそのあとに本文が始まる。 「世界は私の表象である」 という文章から始まるのが興味深い(さてそれはどういうことですか?ということになる)。本書は1巻から4巻に至るその前半の1巻と2巻を収めており、1巻で表象、2巻で意志の説明、そして3巻で表象の第2考察としての芸術、4巻で意志の第2考察としてのペシミズムが展開される。 カントの「物自体

意志と表象としての世界(2)ショーペンハウアー著 書評

「意志と表象としての世界」第3巻と第4巻の一部を掲載したのが本書。ショーペンハウアーの芸術論(第3巻)と世界観(第4巻の一部)で構成されています。 芸術論はイデアの世界観と芸術の世界観をテーマにペシミストたるショーペンハウアーによるペシミスティックな世界観。音楽を最高の芸術と称して芸術はイデアの世界を認識させてくれるという。 そしてこの意志というものは万物を動かすエネルギーみたいなもので、盲目なるエネルギー。こうやって考えるとR・ドーキンスの「盲目の時計職人(遺伝子のこと

ショーペンハウアーの国家論

現在教わっている小坂国継先生の近代哲学講義がドイツの哲学者ショーペンハウアーからだったので、復習も兼ねて「意志と表象としての世界(西尾幹二翻訳版)」読了。 通読すると厭世主義で有名なショーペンハウアー「ここにあり」という感じで、「ニーチェ思想の源流」というのがよくわかる内容だったのですが、それは後日詳述するとして、意外に本書の中では国家のことも論じているのです。 「国家は共同的になっているこの万人のエゴイズムに奉仕するためにのみ存在する。そもそも純粋な道徳性、すなわち道徳