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意志と表象としての世界<1>ショーペンハウアー著 書評


ニーチェやワーグナーに大きな影響を与えたショーペンハウアーの代表的著作。最初の鎌田康男氏の当時の時代背景の解説や彼の簡単な一生の紹介があってそのあとに本文が始まる。

「世界は私の表象である」

という文章から始まるのが興味深い(さてそれはどういうことですか?ということになる)。本書は1巻から4巻に至るその前半の1巻と2巻を収めており、1巻で表象、2巻で意志の説明、そして3巻で表象の第2考察としての芸術、4巻で意志の第2考察としてのペシミズムが展開される。

カントの「物自体」を「盲目なる意志」として置換し、この世の全ては意志の「表象」と主張しているのが本書の第1巻と第2巻。

私が教わっている小坂国継先生によれば、ショーペンハウアーの哲学は「意志と表象としての世界」に集約されており、他は読む必要ないですよ、とのことでしたのでまずはその前半部分。

第1巻は「世界は私の表象」ということで「なるほど」と思うことも多く、この時代にあって主観を出発点として世界説明していく過程は説得力があるなと思う一方で、第2巻の世界原理としての本体=「意志」が登場するにあたっては、古さを感じるものの、この時代にあっては致し方ありません。

それでもこの時代において「意志」というエネルギー的な概念を世界原理とした点は、ニーチェの「力への意志」やハイデガーの「気遣い」といった「動的なもの」につながっていくという観点でとても興味深く感じました。

ショーペンハウアーのイメージしている「意志」は「万物を動かす力」みたいな概念で、人間の意志そのものズバリの概念ではない。したがって植物にも無機物にも意志があるとショーペンハウアーはいいます。

欲望論においても[この意志は世界の本体ではあるが、”盲目の意志”である。すなわちここには「究極目的」も「究極的価値」も消え失せ存在しない。この独創的推論によってショーペンハウアーは、ヨーロッパの汎神論的世界像の終焉を推し進める役割を果たした・・(欲望論第1巻:第11節)]

ということで、全ては主観とし世界原理を無価値の動的なものへ置換したことがこの後のニーチェにつながっていくという点に注目したのかもしれません。

*スイス連邦 ベルン市


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