デザイナー田中清司と過ごした時間
2022年7月
私の義理の兄である、株式会社タナカユニバーサルの創業者兼デザイナー
田中清司が自宅で急逝した。
Ewing(ユーイング)から始まり、LUDWIG REITER(ルーディックライター)、maccheronian(マカロニアン)、CEBO(セボ)、German Trainer(ジャーマントレーナー)、TSTなど、多くのブランドを作り、メゾンブランドと何度もコラボレーションしてきた、偉大なシューズデザイナーでした。
伝説となっている、マルジェラのジャーマントレーナーの話は有名なので、ファッションが好きな方はご存じだと思います。
私は約20年前に彼と出会いました。
初対面の日に、葉巻を吸いに行こうと誘われ、あるホテルのシガーバーで一緒に葉巻を吸ったことは今だ鮮明に覚えています。
当時世界中を飛び回っていた彼でしたが、日本に滞在中は私も一緒に行動を共にし、時間を過ごすことが多かった。
自分の商品を置いているセレクトショップや、海外の展示会で出会った新しいブランドの商品を置いているお店には、何度も何度も一緒に連れて行ってもらった。
シューズと合わせるパンツやスカートについて、熱心に語っていたことや、色の合わせ方と素材の合わせ方についての独自の考えを常に語ってくれた。
そして、世界中の展示会で出会ってきた多くのデザイナーの話や、メゾンブランドの話。
素材を探しに行ったヨーロッパや中南米での出来事。内戦中の国での危険な話。アフリカのガム製造工場でソール用のゴムを作った話。
多くの経験談を、独特の表現方法でずっと語ってくれた。
私たちの会話が途切れると彼の右手が動き始める。彼に、手が動いているよと指摘すると、頭の中でデザインしていたんだ、と言って、頭の中のサンプル指示書を何枚も何枚も書き上げる。
寝ているとき以外の時間は、
靴ばかりを考えていた人だった。
幸運にも、私にはデザインやビジネス、ファッション業界のことを多く語ってくれていた気がする。
また、彼は言葉通りの天才気質でした。
善悪の境目や常識の範囲が、一般人のそれとは比較できないものでした。
簡単に言うと、彼の考えを理解できる人はいなかったし、1人で現実を生活することも困難でした。
(後の回顧録に書き留めますが、これは10代から海外との往復を繰り返す中、時差に苦しみ、外国の睡眠薬の服用を日常的に繰り返していたこともあり、最終的には心の病に罹ってしまったことも原因の一つでした)
親族や実の家族からも理解されず、深い付き合いをせず、できる限り関わりたくないと家族から言われ続けてきたのは、彼の趣味ともいえる裁判を起こす癖と虚言癖や浪費があったからです。
兄弟喧嘩、家族の痴話喧嘩でも訴訟を起こして困らせることが好きでした。
反対に、彼自身が多くの方から訴訟を起こされることも10や20では足りませんでしたが…。
また、彼の周りには何故か、本物の詐欺師や彼を騙す人間が常に現れるので、私が出来る範囲でその度に追い払っていました。もちろん、彼自身の言動が悪人を引き寄せてしまったことも少なくありませんが。
自身のブランドのデザイン流用。知らない間にブランドPRをされて多額の請求をされた事。元々はスロバキアが生産国なのに、機材が移動されてポーランドやチェコ生産に移る期間がある事。などなど…。
そんな数多くのトラブルの一つ一つの詳細は、全て記録していますので、田中清司の偉業とは違った一面として公表する機会があるだろうと思っています。
世界的に有名なシューズデザイナーだった、義兄の田中清司の活動や会話などを、このブログに書き留めていきたいと考えています。
もちろん、私が継承したGerman Trainerのオリジナルモデルについても、綴っていきます。
現在ジャーマントレーナーのオリジナルモデルを商品として製造しているのは、世界中で唯一リベルテーク社のみです。
(2023年4月現在)